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札幌南徳洲会病院看護部長 工藤昭子の やさしさビタミンブログ

再び認知症ケアの先生・南敦司さんをお迎えして

認知症というコトバが定着する一昔前までは、痴呆症と言われていました。
高齢の家族に痴呆症の人がいると、ご近所には知られたくない、家の外に出さないというような時代があり、
病院の中でも認知症の患者は言葉で抑えつけられたり、身体を縛られたり、薬で寝かせきりにさせられたりしていました。

今、当院では「カンフォータブル・ケア」という技術を取り入れて、患者さんが心穏やかに過ごせるようにしようとしています。
去年の9月にこの「カンフォータブル・ケア」を提唱している南敦司さんをお呼びして、研修会をしたのがきっかけです。
https://sapporominami.com/nurse/category/blog-c/dementia/

それはそれは楽しい研修でした。現場で起こる「あるある」な出来事を軸にして、南さんの話はとにかく面白い。(関西人だから、というのも多分あります)
ケアの10の原則を身振り手振りで説明してくださって、小さなグループワークがあって、まるで私たちの脳を活性化するかのように楽しくて引き込まれました。
研修の後、認知症の患者さんにこの技術を使ってみたい気持ちでわくわくしたのです。
ただ、その時は終業後の時間だったので、多くの人に聴いてもらうことが出来なかった。
それで今年は2回、同じ研修をしてたくさんの人に聴いてもらおうということになったのです。
師長さんたちには2回の研修にできるだけ多くの人を出してもらうようにお願いしました。
そして看護部だけじゃなく、病院全体にもできるだけ出てねとお願いしました。
今や南さんは全国区の講師なんです。めったにこんなチャンスは作れません。

当日は南さんに4時間たっぷりしゃべってもらって、約50人位の人が参加できました。
ボランティアさんや向いの施設職員にも呼びかけました。
次回も同じくらい出られたら、職員の2/3の人がこれを聴いたことになる。

10の原則のひとつひとつはそれほど難しいことじゃありません。
ひとりひとりが1つでも続けて実践してくれたらずいぶんいいことだと思います。
ひとつ習慣化したら次の原則を取り入れる。
そうして病院職員の2/3がこれを習慣化してくれたらもっとすごいことです。
研修ってのはそういう風に実践行動にしてくれるのを狙ってるんですよね。

今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
いい、と思うことを地道に続けよう。

身体がよろこぶ!!土の匂い

今週も「あ!ぐり~んプロジェクト」のお話です。
5/9は正面玄関前の花壇と、4Fサンルームで「ふれあい空のガーデン」のプランターに種まきをしました。
植物のある環境や植物を育てる活動を取り入れることは、心身機能の改善や認知症予防につながるというお話を、去年ボランティアでもある、園芸療法士の土角千尋さんから教わりました。
過去のブログ⇒ https://sapporominami.com/nurse/category/blog-c/kandan/

そこで今年はぜひ土づくりのところから患者さんに関わってもらいたいと思っていました。

土のいい匂い

ガーデニングチームのリーダー、徳光三千代さんがあちこちで苗や種を買い集め、細かい段取りを準備してくれました。
外はめちゃめちゃ寒かったので、花壇の方はボランティアさんたちにお任せして、患者さんには4Fに集まってもらいました。
桶に土と肥料を入れて膝の上でまぜまぜ。
それをプランターに入れて。
吹き飛びそうな小さなバジルの種は、泥団子にまぜて。
車いすに座ったままでも、こうして種植えができる。
身体が思うように動かなくって、もう畑仕事は叶わなくなったという方も、久しぶりに土に触れ、においをかいで懐かしい感覚を呼び戻したのでは・・と思います。

そしてそして、実は私たちが4Fでこうしている間に、別のボランティアさん2人はベッドから降りられない方のところへ、土を出前していたことを後から知りました。

ある方は指が拘縮(かたくなって動かないこと)していたのですが、土に触るとあら不思議、動かないと思っていた指が土をにぎにぎしていたのです。そしてふわっとやさしいお顔で笑って下さった。終わったあとも「楽しかった~」と言ってくださったとか。
ボランティアさんが「感動しました~~」と教えてくださって、それがまた嬉しい。

去年もそうでしたが、園芸を通して患者さんが役割を持ち、意欲が高まったり、普段は見せない姿や力を発揮するのに驚きます。このあとは自分で植えた種がその後どうなったのかを見にくることにつながりますし、成長をしたものを愛で、収穫を楽しみ、給食で食べていただけたらと思います。

玄関先の花壇もきれいになった!

今日もこのブログに来て下さりありがとうございます。
ボランティア「せら」のみなさんありがとう~~多くの人に支えられて、成り立ってます。

今年の花壇はこんな感じ

今年もあ!ぐり~んプロジェクト始動!

spring has come!
今年も畑の季節がやってまいりました。
一昨年から病院周囲の小さなスペースを使って、野菜や花壇を作って楽しんでいます。
去年はそれに「あ!ぐり~んプロジェクト」という名前を付けて面白がっていました。
患者さんも24時間病気のことばかり考えたり戦っているわけじゃない。
ほんのちょっとした、いつもと違うことが楽しいと思ってもらえたら、その日は少しいい日になるに違いない。
なんてことを考えてました。

「今日は午後2時から種イモを植えるよ」と朝礼や通りすがりに言って歩きました。
そしたら2時前に温かい上着を着た患者さんが何人も車いすで来てくれました。
同じ数だけ職員も一緒です。

あらかじめ掘り返した土の中に種イモを入れました。
昔は私も野菜作ってたの・・といいながら器用にベストポイントに着地。

今年もキタアカリ

隣ではイチゴがいくつか花を咲かせています。
筆を使って授粉をお願いしました。

「収穫したら俺も食べていいのか?」
「もちろんです。」
「おお!じゃあ一杯たべるぞ!」

あっという間の10分間でした。
雨がぽちっと降りだしてちょうどいい頃合い。

「去年は私と患者さん一人だったんです。それが今年は詰所のみんなが誰を連れていくか、何時に着替えるかってみんなでわいわいして降りてきたんです。患者さんが笑顔でお部屋に帰るのを見たら、自分たちも行きたくなるんですよね。それがうれしくて・・・」
と目をうるうるさせてくれた師長さん。

今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
その目を見てこちらまでうるうる・・。

イトイさんちのブイヨンちゃん

糸井重里さんの飼い犬「ブイヨン」ちゃんが今年の3月に旅立って早1か月が過ぎました。
「ほぼ日刊イトイ新聞」に写真で出ていて、ボール遊びしている姿だったり、お昼寝してたり、タオルに潜り込んでオブジェのようになる「梱包芸術」の姿を見ていたから、まるで隣の家の子のように勝手に思っていました。

ブイヨンを喪ってからのイトイさんは、その日その時の心情を「ほぼ日刊イトイ新聞」に書いています。
「くっつく、なでる、いっしょに寝る。そういうことだけで愛しているつもりだったぼくは、実はほんとに愛していたんだと、知ることになった。目の前から消えてさえも、ぼくらはすっごく仲良しだ」(3月27日)

夫婦で新幹線で旅に出るときも、いつもはお弁当を買うときに一人は車内でキャリーケースに入ったブイヨンといっしょにいる必要があったのだけど、初めて二人で一緒にお弁当を選んでいる。ブイヨンがいないことでできるようになったこともあるけれど、だからこそブイヨンの不在を改めて感じる、という内容には、思わず涙腺が緩みます。
糸井さんは書くことでブイヨンを想い、ココロの中を吐きだし、悲しみを味わい客観的になっていく。
その文章を読む私たち読者も追体験している、そして勝手に隣に座っている気持ちになる。

一度も会ったことはないのに、不思議ですけどね。

それでつい、本を買って思い出に浸っています。

今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
何度でも、本なら読み返すことができる。

”患者さんに寄りそう”ってよく言うけれど

4月21日札幌市内で「死の臨床・北海道支部春の研究会」があり、今年度から支部長になった田巻知宏先生(北海道消化器科病院)の特別講演とシンポジウムを聴いてきました。
田巻先生は東北の大震災後に、被災者の健康と心をサポートする「お医者さんのお茶っこ」という活動を今年の3月までされていたそうです。
また北海道に子供ホスピスを作るプロジェクトでも活動されていて、それらの幅広い実践活動が緩和ケアとも結びついているので、講演内容は深く広く考えさせられました。

グリーフ(悲嘆)は乗り越えるのではない

「私たちは人生の中でグリーフ(悲嘆)を何度となく経験します。亡くなるというだけじゃなく、大切な人と別れたり、物を失くしたり、愛着のある場所を離れたり。その人個人の歴史と将来に関わることです。グリーフを乗り越えるというのではなく、時間と共に受け入れていけるようになるものです。」
「回復のために必要な時間はその人により様々ですが、おおよそ2年から5年かかるといいます。その悲しみを忘れることはないけれど、少しずつ今この時が幸せだと感じられる時間が出てきて、ちょっとずつそれが長くなっていくことで人は回復していくのです」、と田巻先生はおっしゃいました。
なるほどな、自分自身のことを想い返してもそうだな、と納得します。

 

前のめりな寄り添いは時に迷惑なことがある

講演のあとシンポジウムがあり、おひとりの患者さんを病院~緩和ケア外来~在宅の連携で関わった経緯について、それぞれの立場から発表されました。

発表後の質疑応答の中で「患者さんに寄り添うってよく言うけど、前のめりな(医療者都合の)寄り添いは時に相手にとって迷惑なことがある」という発言も印象的でした。

私たちは必要なときにすうっとそばにいることができているだろうか?
忙しいことを理由にほんの数分だけ共に過ごすことを先延ばしにしてないだろうか?
あるいは相手が必要と自覚していなくても、先を見越して傍らにいることができているだろうか?
心が伴っているだろうか?

そしてそれは本当にその人の役に立っているのだろうか?
それは患者(家族)さんにしかわからない。

「患者さんの立場になって」というのと似てる。耳障りのいいコトバだけど、そもそも患者さんの立場になんかなれっこない。だから近づいて患者さんの思いを聴き、これでいいのかを確かめる、謙虚になって教えていただくということが大事なんだな、と改めて感じました。う~ん、正解なんてないよね。深いなあ。

今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
「ああ、あれでよかったんだな」と思えるのはだいぶあとになってからわかったりするもんね。

ボランティアさんの作ってくれた寄せ植え。私はこのクリスマスローズが好きです。

日本の医療ドラマは見ない・・でも。

私、アメリカのテレビドラマが好きです。
最近はタブレットをベッドに持ち込み、アマゾン・プライムやHULU(フール―)で配信されている連続ドラマを、一日1話ずつ見るのを楽しみにしています。

かつて「ER緊急救命室」というドラマが大好きでした。
アメリカ・シカゴの病院の救急センターが舞台の一話完結ものでしたが、登場人物一人一人のエピソードがあって、試練と成長、恋愛と別れ、患者の人生ドラマが面白くて医療知識としても勉強になりました。
神の手というよりは実直に考え努力したり、仕事はできるのに家庭生活がうまくいってなかったり、傲慢でいけ好かない奴だけど、実はヒューマニズムが見え隠れしたり。
現実にも「いるいる」と思うような人物が魅力的に描かれていました。

http://www.superdramatv.com/line/er/

そのドラマが発端かどうかはわかりませんが、この10年あまり日本でも医療系のドラマが結構放映されたと思います。
でも私はあんまり見ませんでした。なぜかって、いろいろツッコみたくなるから(笑)。
「私、失敗しませんから」の名セリフくらいにデフォルメされちゃうと、かえってギャグだと思えますが、「こんな会話はないよなあ」とか「こんな若い医者ばっかりだったら不安だなあ」とか「患者さんてまっすぐ天井向いて寝てないしね」なんてことについつい目がいってしまうのです。

そしてよくある屋上シーン。病院管理上、屋上ってあんまり気軽に出入りできる場所じゃないはず。
たいがい施錠されてて。演出としては使いやすい場所なんだと思うけど、医療者としては「ない」なあ。

そういいつつ、それらの医療ドラマに憧れて看護師を目指す若者もたくさんいるので、夢は壊さない方がいいですね。
これからは在宅のドラマ、とりわけ自宅での看取りのドラマが増えるといいのかも。

さて表題ですが。
普段日本の医療ドラマは横目で感じているだけの私ですが、「ブラックペアン」は見てみます。
なぜかって日曜ドラマのヒット枠だし、主演が二宮くんだし(笑)。
http://www.tbs.co.jp/blackpean_tbs/

今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
予告じゃあ研修医にしか見えない(^^ゞ

30秒の家族ケア

もう年度が替わってしまったのですが、3月に看護部教育委員会で計画した「家族ケア」の講義がありました。29年度はこの「家族ケア」とグリーフケア委員会で企画した「グリーフケア」の研修とがぴったりマッチして、看護者がどのようにご家族を支えるかを看護師側とご家族の声から聴くことができました。

看護師が看護師になる理由の中には家族や親しい人の、病気にまつわる体験をきっかけにしていることがよくあります。「家族ケア」で講義をしてくれたナースQさんも、お母様の旅立ちのプロセスに家族ケアの物語がありました。
Qさんは入院していたお母様に対し、看護師でありながら今一歩近づけない、体に触れられない気持ちでいました。
患者さんだったらなんということもない行為も、家族であるがゆえに手が出せない気持ちだったのです。
そして危篤のお母様をそばで見守りながら、何もできない自分を責めていました。固い椅子に座って夜通し付き添った朝方、看護補助者の方が顔を拭くための熱いタオルを一本Qさんに手渡しました。

「ほれ、お母さんの顔、拭いてやんな」と一言声をかけられて、彼女は突き動かされるようにそのタオルでお母様の顔を拭くことができたのです。
Qさんは「今考えると初対面の家族に、”ほれ”はないだろうと思います。けれども私にはあのときの補助者の方が、”この娘さんは一晩中母親に付き添っているけれども、何もできないでいるんだな。きっかけがあれば何かできたと思うかな”、と一瞬で見抜いたんじゃないかと思います」と話しました。

この補助者の方がそこまで鋭い視点を持っていたかどうかはわかりませんが、とにかくQさんはその人の一言に救われ、行動ができたのですね。それが30秒の家族ケアだったと彼女は話してくれました。
「さあ家族ケアをしましょう」という構えではなく、日常の中の様々な場面に家族ケアのチャンスはあると語っているのです。

本年度の教育委員会もこの「家族ケア」を引き続きやっていこうということになりました。
「うちの病院だからこそ、ここは大事にしていきたいよね。こういう話は何回聴いてもいいよね」というコトバが教育委員の中から出たのが私にはうれしいことでした。

今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
関心を寄せることなんだよな~。

 

病いという経験を語ること・聴くこと

「病いは経験である」というコトバを最近頭の中で反芻しています。
アーサー・クラインマンという精神科医で医療人類学者の著書「病いの語り」の冒頭に書かれたコトバです。
急性であれ、慢性であれ、それまでの日常に未知の経験が加わることが病いですから、それはその人・その家族にとって個別の経験となるものです。その時々で何を選択するのがいいのか、どう解釈するのがいいのかを模索しながら、それでも人生は進んで行きます。

個人的なことで恐縮ですが私は昨年から突然全身に皮膚トラブルを発症しました。
特に手荒れがひどくていまも治療中ですが、悪化と軽快を繰り返しています。
体質的なものなので「治る」ということはなく、つきあっていくしかない慢性状態になりました。

これとてひとつの経験です。
重い病気の方に比べればたいしたことはないのですが、手荒れがひどくて常にどこか割れて出血していること、洗髪の時が一番つらいこと、保湿が大事で常に綿手袋をしなくてはならないこと、水を使う食事の支度や片付けが億劫になったことなど、日常生活に少なくない変化がありました。

今はアトピー性皮膚炎で苦しむ方の気持ちが少しわかるようになりました。

ときどき看護師たちが「部長さん手はよくなりましたか?」と聞いてくれます。
忙しい彼女たちにいろいろ語ることはしませんが、そうして自分ごとに関心を寄せてくれるだけで、心がふわっと丸くなるのを感じます。弱っているときには経験を聴いてもらうことが、なによりのケアになると思います。

逆に、ご家族にがんと診断された方から驚愕の心持で相談を寄せられることがあります。
これは専門家としての意見を求められている場合もあれば、「この驚きを聴いて受け止めてほしい」という場合もあります。
私はがんの専門家ではありませんが、「この人に聞いてみよう」と思っていただける以上、できるだけ力になりたいと思います。

他者の病の経験をお聴きして近づき、自分ごとにも重ねてより深く考える。
終わりのない学びです。

今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
「ここに来たらよく話を聴いてもらった」っていいよね!

道聞かれ顔

業界紙を読んでいたら、記事の中で「道聞かれ顔」というコトバが目に留まりました。
街中で「この人には道を聞いてもよさそう」とか「道を聞かれたがっている」という、ホスピタリティに溢れた表情のことを言うそうです。

「わたし街中を歩いているとよく道を聞かれる」という人、身近にいますよね。
柔和な笑顔で、まあなんというか「世のため人のため」オーラの出てる人と言ったらいいか。

<大阪で桜満開>

患者さんの話を聴くためには医療者も「道聞かれ顔」であることが大切だと記事には書かれていました。
看護学生の時にはベッドサイドで患者さんの話を一所懸命聞いていたのに、臨床現場に入って数年すると目の前の仕事に追われて「私に聞かないで・話しかけないで」モードになってしまう。忙しすぎるんです。どこもかしこも。

昔師長になりたてのころ、1年目の看護師が夕方詰所に戻ってくるなり、こう言いました。
「これじゃ私 ”処置屋”だわ。処置なんてロボットにやってもらいたい。なんのために看護師になったかわからない。」
やってあげたい、聴いてあげたいはたくさんあるのに、最小限の内容で終わる日々。
私はこの看護師とコトバが忘れられません。

さらにさかのぼって、私が新卒だったときのこと。
アコガレの先輩ナースFさんは、夜勤に入ると「今日は○号室の△さんの話を聴く日だから、しばらく戻ってこないからね。先にごはん食べてて」と言いました。
Fさんはまず全部の部屋を回って、ナースコールで呼ばれないようにきちんと一人ひとりの患者さんを看て、整えていました。
それから詰所から見える場所で、△さんとふたり、ベンチに座って21時の消灯をすぎてもじっくりお話を聴いていました。

患者さんの話を引き出すための時間を作り、中断されないように他の患者さんのこともしっかり手当しておく。
なんてかっこいいんだろう。こんな看護師になりたいと思ったシーンでした。

効率化も大事だけれど、何かを効率化するのはもっと患者さんが語ろうと思える余裕や空間を持つためでありたいものです。
診療報酬の改定で入退院支援に力を入ると点数が大きくつくようになりました。
入院前にしっかり説明して患者さんの持つ不安を解消し、情報を早く収集して病棟と共有することで、病棟看護師の負担が減るだろうと言われています。
すべての病院に適合するわけではありませんが、このシステムがうまく稼働すれば「道聞かれ顔」を増やすことになるかも知れないですね。

<新築病院の内覧会で>


今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
記録ものの音声入力。早く一般化されてほしいな。

冬に咲く桜~善意のつながりに感謝~

3月になり気温が上がって札幌も雪解けが進んでいます。
先日静岡から桜の木枝が送られてきました。
当院でボランティア活動をしてくださっているHさんの、東京のご友人からとのこと。

「え?どういうことですか?」と尋ねると、東京のご友人とは日ごろからHさんが当院でしているボランティアについて話をしていたそうなのです。

ご自身のご家族の喪失体験。ホスピスで活動していること。そしてボランティア活動がご自身のグリーフケアになっていること。仲間と共に活動することがひとつの楽しみになっていること。ご家族が活動を支援してくれていること。

それで共感してくれたご友人がわざわざ静岡から当院に送り届けてくれるように頼んで下さったのだそうです。
お二人の善意がここには詰まっています。

今日もこのブログへ来ていただきありがとうございます。
ようこそ、まだ雪の札幌へ。

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