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2019年10月

余韻の続く小説「平場の月」

しばらくぶりにいい小説を読みました。
このところ小説から遠ざかっていたので新鮮でもありまして。

主人公は50代の女性です。
「平場」という言葉は初めて知ったのですが、文字通り「平たい場所」とか「普通の場」という意味があり、小説の登場人物も目立たないごく普通の生活をしている一市民で、特別大きな事件が起こるわけではありませんが、日々の生活と心情の中にひたひたと迫りくるものがありました。
早く全部を読みたいのに(またそうできる分量なのに)、主人公の気持ちをゆっくり味わいたい気持ちになり(あるいは友人の気持ちになったり)結末は冒頭に出てくるので、読みたいのに読み終わりたくないという相反した感情になってしまうという、不思議な小説でした。

今これをお読みの方は、あらすじも書かずに何を言ってるかわからないと思います。
キーワードなんかを書くと陳腐になりそうで・・自分の筆力のなさをすみません・・。

話し言葉が小見出しにもなっていて、「ちょうどよくしあわせなんだ」とか「誰に助けを求めるかは自分で決めたいんだ」とかシビレル言葉が随所にありました。
物語に通底しているのは「自分のことは最期まで自分で決めたい。自分で選びたい」という人間の尊厳であり、日々の暮らしの中にこそ幸せがあり、それを小さく刻んでは味わっていくということでした。
読後しばらく余韻が続きました。

今日もこのブログにきていただきありがとうございます。
予備知識なく読んだほうが喜びが大きいかも。

親指同士の会話

患者さんやご家族の中には「誰かに気持ちを聴いてもらいたい」と思っておられる方が、おそらくたくさんいらっしゃいます。
けれども医療者では忙しくて聴いてもらうのは申し訳ないとか、医療者にはわかってもらえないだろうと、あきらめてしまっていることがあると思います。
こういうとき、病気やそれ以外のつらさを話せる人がいたらいいですよね。
誰かに聞いてもらうことで心が楽になることはよくありますから。

確かめたことはないけれど、おそらくほとんどの方が大なり小なりそういう気持ちを持っておられるのではないかなと想像しています。
私自身、家族が病気のときに、病気そのものの心配ももちろんあるのですが、自分の心細い気持ちを誰かに聴いてもらいたいと感じました。
そう感じる一方で「こんなこと話しても相手の人は聴くのが楽しくないだろうな」と思って呑み込んでしまう、そうも思いました。
「みんな忙しいのだから、こんな愚痴みたいなこと聞きたくないだろう」。最初は小さな感情でも、徐々に溜まってくると、だんだん苦しくなるものです。

そこで看護師がじっくり腰を据えてお話を聴けたらいいのですが、現実はなかなか難しい。
そんな時は傾聴ボランティアさんの出番です。
患者さんの気持ちをキャッチして、傾聴ボランティアの方をつなげるのは看護師の役割です。
いくら誰かに聴いてもらいたいと思っていたとしても、突然知らない人がやってきて「さあどうぞ、なんでもお話してください」と言われても面食らってしまうでしょうから。

「この方は傾聴ボランティアの〇〇さんと言って、とても聴き上手な方なんです。お話した内容はもちろん守秘義務がありますのでけして他の人に話すことはありません。よかったら△△(患者)さんのお話を聴かせてもらえませんか?」などと紹介し、少し世間話などしてから聴くことの承諾を得るようにしています。

この傾聴ボランティアさん、当院には数名いらっしゃって、病棟それぞれに担当が決まっています。
先日そのうちの3人の方と「傾聴ワークショップ」を開き、それぞれが傾聴の際に気をつけていることや、患者さんから教わったことなどをシェアしあう場を設けました。

その中の話が、きらきら輝く宝石のような言葉だったので、再現してみます。

「世間話から始まりますが、ときに沈黙が続くときがあります。そんな時は薄れかけた遠い記憶を思い起こしている場合があるので、邪魔をしないようにじっくりとそこで待ち、たたずむようにしています」

「病室の入り口にカーテンがかかっていて、看護師さんの足が行ったり来たりしている。うらやましいなあ、動きたいなあ、私にもあんな風に元気に動いていたときがあったのに、とおっしゃる方がいました。無力感や孤独感をわかってもらいたいという気持ちが強く伝わってきました」

「認知症の方でベッドの柵をぎゅっと握りしめている方がいました。その手に自分の手を重ねてリズムを取るようにしていたら、いつのまにかぎゅっと握りしめた手が緩んで、その方の親指が柵から離れて私の親指に合わせてくれて、親指同士で会話をしたんです」

「たとえ一度限りの出会いでも、その方に自分が受け入れてもらえたときに、魂が触れ合う瞬間がある」

「病気を抱えながら生きる時間の中で、傾聴ボランティアの関わりはほんのちょっぴりの時間。でも、今日はちょっと笑ったな、とか聴いてもらって楽になったな、と思ってもらえたらそれでいい」

今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
ほんとに、人として学ぶことが多い。

秋山正子さんとの対話

9月1日に当院の関連施設である「緩和ケア訪問看護ステーション札幌」がオープンしました。
これまでは「ホームケアクリニック札幌」でみなし訪問看護事業を行っていたので、それを継承する形です。
あえて名前に「緩和ケア」とつけて、山崎美恵所長の強い気持ちを表しました。

2008年のクリニック開設時からずっと在宅緩和ケア一筋にやってきたので、ケアそのものには大きな変わりはありません。
ただ、ステーションになることで、訪問看護師としてのステイタスが変わるものだと山崎さんは言います。
診療所の付属的な訪問看護から、自律した看護経営者としての組織になり責任が大きく感じられます。

10月6日には訪問看護界のパイオニアである秋山正子さん(マギーズ東京代表)をお招きして特別講演を行いました。

講演前に昼食をご一緒させて頂きましたが、秋山さんのお話は病院の臨床現場で陥りがちな、医療者の偏った目線について気づかせてくれるものでした。

偏った目線、たとえば食事制限が守れない患者さんに対して「どうしてできないのか」と正論で闘うのではなく、さりとて「患者さんを家族だと思ってかんがえてごらん」というようなありがちな物言いでもなく、その方の生活文化や習慣を踏まえたうえで、一歩違う角度から見ることを促すような自然さ。けして無理をしない、医療者もきりきりとしない。そんな風に私たちは導かれました。
こういう穏やかで無理のない対話が、もっと臨床現場でできるといいのになあと心から思いました。

講演会直前にスタッフミーティングをした終わり「エールはしないの?あ、ハカかな?」という話になりました。
秋山さん自らハカのポーズをなさろうとして、なんて気さくでチャーミングな方だろうと思いました。

それにしても、2年前マギーズ東京を見学した時には新病院のことも訪問看護ステーションのこともまだまだ全然動いてなかったのに、そして秋山さんと間近にお話できるようになるとは想像もつきませんでした。

マギーズ東京で初めてお会いした時に、秋山さんは小さな声で「つぶやいてたらね、いつか叶いますよ」とおっしゃったんです。
3回くらいそうおっしゃって。
そのことがとても印象に残っていたのです。
2年前のブログ↓

https://sapporominami.com/nurse/2017/02/06/

院長や総長がつぶやいて新病院が実現に向けて動き出し、山崎所長がつぶやいてステーションが立ち上がり、色んな人の協力があって夢に近づいている、とても幸せなことです。

今日もこのブログに来ていただきありがとうございます????
プロセスを楽しもう!

緩和ケアは「聴く医療」である

札幌は急に気温が下がり、朝晩冷え込む季節になりました。
10月5日(土)に徳洲会グループの緩和ケアセミナーが札幌で行われました。この会合は当院が言い出しっぺで始めたもので、今回が3回目。
全国に70以上ある徳洲会グループに呼び掛け、緩和ケア病棟のあるなしに関わらず、参加者は年々増えて今年は約100名になりました。

当院総長の前野のあいさつと基調講演でスタートし、一般演題の発表、特別講演では最新の疼痛治療と続きまして、シンポジウムは「Advance care plan:ACPをどのようにしていますか」をテーマに5人が自施設の発表をしてその後多職種でのグループワークへと続きました。

急性期病院では多職種で患者さんからお話を聞く時間がなかなか取れず、また聴けても共有する場を持てないこと、救急の場でのACPと終末期医療でのACPとはアプローチの仕方がちがうと現場の医師が感じていること、電子カルテを使っているのだから、患者さんのACPについて知りえた情報はみんなで共有する場所を作ったらどうか、などの意見にうなづくばかりでした。

薬剤師さんのこんな発言がありました。
入院患者さんに処方された薬を配薬するときに、薬剤情報という薬の作用・副作用を書いた紙を持っていって説明するのだが、患者さんの中には細かい字で書かれた紙を欲しいと思わない人がいて、それは顔を見ればわかるのだそうです。
患者さんがどんな情報を欲しがっているかは、患者さんから聴くしかない。
そこには医師には遠慮して言えなくて、ついうなづいてしまったがために処方された薬が入っていて、本当はいらなかったとか、そういうコミュニケーションの問題なんかも含まれています。
緩和医療自体が「聴く医療」だが、これからは緩和に限らずますます聴くことの重要性が高まっているんじゃないか、という話が印象的でした。
私は薬剤師さんがそのように考えて患者さんと向き合っていることに、新鮮な感動を覚えました。

他のグループの発表では「聴く人を専任で配置したらどうか」という発言もありました。
急性期病院ではどうしてもそういう分業の発想になってしまうのはよくわかります。しかし聴くことは誰かに任せても、大事なのはそれをどう共有して同じ方向に向かっていくか、であり、その時間さえとれなくなっているのだとしたら、私たち医療者は一体どこへ向かっていくのだろうか、などと考えさせられました。
少なくとも看護師は、聴くことを手放してはいけない。
そう思います。

それにしても、徳洲会といえば救急医療と認識されてきていた中で、これだけの人が緩和ケアに興味関心を持ってくれているのがうれしいです。孤軍奮闘している人も多くて、壁にぶち当たりながら自分だけは折れないようにと頑張っている人の努力をひしひしと感じます。
この緩和ケアセミナーの場が、これからも安全安心に発言できる温かい場であり続けるように、と願っています。

今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
全国ご当地みやげフェアも楽しかったです。