札幌南徳洲会病院看護部長 工藤昭子の やさしさビタミンブログ
「やるべき」仕事「やれる」仕事、そして「やりたい」仕事
サイボウズの社長青野慶久さんの本「会社というモンスターが僕たちを不幸にしているのかも知れない」を読みました。
仕事には「やるべき」仕事、「やりたい」仕事、「やれる」仕事があって、それらの交点を探して自分の意思によって決めた、と覚悟することが楽しい仕事につながる、と書かれています。
会社の新入社員は、組織の考えで働く場所を決められて、必ずしも希望通りの場所に配置されるとは限りませんが、与えられた場所で懸命にトレーニングしていくうちに、それが「やるべき」で「やれる」仕事となり、「やりたい」ことが広がっていく可能性を秘めています。
病院にいても、同じことがあります。
医師や放射線技師などの医療技術者と違って、看護師はその病院の診療科や全体の人数によって、配置を変えられることがあります。
私自身も新卒の時に外科系に行きたいと思っていたのに内科に配属されて、がっかりしたことがありました。
けれども内科は検査データと症状をじっくり見ることが求められるので、看護師としての観察力は鍛えられるし、ある意味結果は明快なところがあって、面白いとあとから気づきました。
自分がやりたいと思うことが必ずしも向いているかはわかりません。
むしろ若いときは得意不得意にかかわらずなんでも経験したほうが、自分で気づいてない分野に目覚めるかもしれないですね。
いろいろな経験を積み、自分の思う方向と違う方へ流されたとしても、そこで自分が役に立ち、誰かを喜ばせることができたら、「ま、ちょっと違ったけど、これでもいいか」と思えることもあります。
その仕事に納得がいかないとき、どうして自分が納得していないのか、深く考えてみることが大事です。
「やりたい」「やれる」「やるべき」のどれかが欠けているはずだ、と青野さんは言っています。
納得いかない違和感を覚えるときこそ、考えるときです。
この後も与えられた場所で楽しく働けるのか、自分の夢を押し通して環境を変えるのか。
どの道を選んでも責任は自分で取る。
人のせいにしているうちは本物の働く喜びを手に入れることはできません。
組織の価値観と相いれない、と思ったらそれはもう環境を変えるしかない。
そして、転職せざるを得ないとなったときに、初めて自分の市場価値に気づくのです。
しかもこの仕事、患者さんを対象にしているので、ただ自分のためだけに「やりたい」のだとすると、すぐメッキがはがれてしまいます。
患者さんのためになるのかどうか、が根底にないと結構簡単にバレてしまいます。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
やっぱり真摯さ、だと思う。
「ナースのためのシシリー・ソンダーズ」を読む
いきなり言い訳っぽいですが、私はホスピスの病院に勤めていますけれども、この道の専門家というわけではありません。この病院に来てから初めてホスピスに接し、働く人たちから日々教わっています。
「グリーフ」(悲嘆)ということばも知らなかったぐらいです。
ですからその都度わかったことやすごいなあと感じたことを、ここで書いたりしています。
ただ今この本を予習中です。これは今年NPO法人「ホスピスのこころ研究所」で開催するセミナーに登壇される、小森先生が翻訳された本です。
英国人のシシリー・ソンダーズさんは、看護師・ソーシャルワーカーの資格を取った後医師の免許も取り、セント・クリストファー病院を建てられて、ホスピスの母と呼ばれる方です。
この本は医師になって2年目に看護師向けに書かれた本なのですが、その視点・洞察・表現に驚きます。
少し引用してみます。
―「彼ら(患者)は、ケアのよい技術と同様、温かさと友情を必要としていた。私たちは痛みがどんなものかを学ばなければならない。重い病気になるというのはどういうことか、仕事を辞めて人生から撤退するのはどういうことか、身体精神機能が低下することや、大切な人やいろいろな責任を失うことについても知らなければならない」
(第12章 私と共に目を覚ましていなさい)―
当院の前野総長が、緩和ケアを学びに来た学生や医療者によく言うのは、このことです。
「私たち医療者は健康で働いていて、重い病気を持った人の気持ちになろうとしてもなることはできない。ましてやがんの末期になったこともないのだ。だから患者さんひとりひとりに教えていただくしかない。このケアでよかったのかどうかを常に問い続けなければならない」と。
それからこんな一節も読んでいてこころが温まります。
―「人々がありのままに受け入れられて、安全の中でリラックスできる、良い家庭にみられる歓迎とかホスピタリティを提供できる家庭のようなホームにならなければならない。」(同)ー
これは病院全体がこうでありたいといつも願っていることです。
職員同士も家族のように、お互いを尊敬しあえるチームでなければ、患者さんに気持ちを緩めてもらうことはできないですから。
そしてここも。
―「私たちは彼ら(患者)が鞄に正しいものを詰め、大切なもので満たし、彼らの必要とする物を入れることができるようになれば、と祈るべきだと思う。ここにいる間に、彼らは人生のこの最後の時期に、自らの和解、成就、そして意味を見つけるだろう。」(同)ー
最期のときを温かく穏やかな中に包まれて旅立てますように、と願いながら。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
4月20日(土)13:00~札幌 かでる2・7で翻訳者である小森康永先生の講演があります。
お時間がある方お運びください。
小さなサービスと新しい病院と
ただ今私どもは新築移転に向けて設計の話し合いをしているところです。設計士の方々と定期的に話し合い、段々設計図が出来てくるのはとても楽しいプロセスです。
設計士さんにも良いものを作りたいという意気込みがあり、専門的な視点を教えられます。
医療者側の視点ではわからない、一般の方の視点やこれからの病院のあり方についても既成概念ではないところをたびたび教えられています。
一方で私たちの使いやすさ・動きやすさに対するこだわりも伝えていくと、おや、これは医療で言うところの「説明と同意」「納得のいく意思決定支援」と一緒だなと思います。
なんにせよみんなが思いに蓋をしないように対話できることが大事だな~と思います。
設計図を見ながら、どんな風に患者さんがこの通路を通るのか、それに合わせて職員がどう動くのか、という運用の辺りは話が1番盛り上がるところです。
例えば現在の病院では、外来の診察を終えた方は、終わった印としてプリント入りのクリアファイルを会計に持っていく仕組みがあります。
ご高齢の患者さんの場合は、職員がクリアファイルをさっと会計に届けています。
なにせ狭い外来ですからちょっとかけ足するともう会計に着きますので。
患者さんは立ちあがるだけで「よっこらしょ」ですし、手荷物もあり、さらにファイルを持つのが大変でしょう。
職員が先に運んでおけば、患者さんが会計に歩いている間に計算が終わり、素早く会計が終了します。
これは当院で実践している小さなサービスの1つです。
しかし新病院では外来から会計までの動線が長くなるので、ファイルを運ぶために看護師が診察室を空にする事が多くなるのはどうだろうかという話になりました。
新病院では患者さんにご協力頂いたらどうだろうか、いやいやシステム上ファイルの持ち運びをなくすことは出来ないだろうか、やっぱりこの小さなサービスは大事なことだから、運ぶ通路を裏側でショートカット出来ないかという意見が出てきました。
私は面白いなあと思いながらこの経緯を見守っています。
今の人数で、患者さんへのサービスを低下させないために何が出来るか、とても大事な議論です。
こういう話、組織が大きくなるととかくセクショナリズムや、自部所の負担増を避けたいために、割と感情的になりやすいポイントです。
組織のトップが「ああしろこうしろ」というのもひとつですが、
「患者さんのために」
を見失わずに、しかも誰かが我慢するのではなく、納得して合意形成するとどんな着地点になるのか。
今はだまって見守っています。
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今日から新年度。フレッシュな果実のようにいきましょう♫
傾聴ボランティアワークショップ
当院のボランティアさんの中には「傾聴」の方が数名いらっしゃいます。
家族や医療者には本当の気持ちを話せないけれど、ボランティアの方にだったら話せる、ということが、ままあります。
傾聴・あるいは寄りそいをするボランティアさんたちと先日今年度の振り返りをしました。
これは初めての試みです。
振り返りの目的はそれぞれの経験の中で難しかったと思うことや、よかったことなどを共有しお互いに学びあうことです。
患者さんからはそのとき感じているつらい感情が出てきます。
そんな時どう対応するのがよかったのか、という問いが生まれました。
「正しい対応なんてないし、会話技術でもない。ただそのつらい気持ちを受け止めるだけでいいのではないか?」
「何も言葉はなくても、ただ隣に寄り添っているだけで自然と言葉が出てくることがあるよね」
「家族にも言えない、人にはわかってもらえない感情を今ここで出せた、というだけでいいのではないかと思う」
「人生の中で失ったもの、後悔しているものごとに今向かい合っている。人は最期まで成長しようとしているのではないか」
という話がつぎつぎと出てきて、私は一言も聞き漏らすまい、とメモをしていました。
医療者は患者さんやご家族のお話を十分聴けてないのです。
けれどもボランティアの方がゆったりと傍らに座り、やさしい態度で接するおかげで「この人になら話してもいいかな」と思ってくださっているのだろうと思うのです。
そこでは弱音を吐いてもいいし、恨み言をつぶやいてもいい。
ただただ聴くことに徹してくださるから。
「患者さんの話をゆっくり聴きたい」
この病院に来る看護師はみんなそう言いますが、現場ではそうもいかなくて。
そこをなんとかするのが私の仕事なんですがね・・。
せめてこの、ボランティアさんたちの話をみんなに聴かせたいよな~と思うのです。
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たった5分でも魂の会話に。
こころを育む卒園式
3月16日土曜日に病院の保育園の卒園式が行われました。
前夜から雪が降り積もり、冬に逆戻りしたような札幌。
数日前から保育士さんと子供たちが練習に来ていました。
当日の朝、いつも朝礼に使っている講義室が卒園式様に飾り付けられて、先生方も子供たちも華やいで美しい装いです。
私は園長なので祝辞を最終確認して出席しました。
司会の保育士さんは、開式の言葉を読み上げるときから、すでに涙声。
危ない!これから祝辞を述べるというのにもらい泣きしそうです。
在園児から贈り物が渡され、次は卒園児からおじいちゃんとお母さんへお礼の言葉が述べられました。
泣きながらお礼を言う子供の言葉、涙するお母さん、在園児の親御さんもツラれて涙ぐみ鼻をすすります。
最後は元気よく歌をうたって終了。
在園児の親御さんたち(つまり職員たち)は「えらかったね~」「よくがんばったね」とお互いの子供を称えて無事式を終えました。
ここは小さくてとても家族的な保育園です。
こんな風に出会いと別れとさみしさと感謝をちゃんと味わって、ミルフィーユのように積み重ねていくことが、心を育むんだなあと思いました。
そして安心して働けるのは保育士さんが子供を見守り育ててくれているから。
ほんとに感謝です。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
うちの子も保育士さんに育ててもらったなあ。
今年も「あ・ぐり~んプロジェクト」始まります
今年の札幌は雪解けが早くてうれしいです。
先日4Fのサンルームで「押し花アート」のイベントを行いました。
私の師匠とボランティアの人たちが準備をしてくださいました。
入院中の患者さんやご家族さんと一緒に、押し花を色紙にひとつずつ置き、それをラミネート加工して持ち帰る、という催しものです。
道具はすべてそろっているので、初めての人も簡単にできるのです。
持ち帰ったシートは額縁に入れればちょっとした飾りになります。
この押し花は師匠の家のお庭や当院の花壇で咲いた花を、色の良いときに集めて押して準備してあるのです。
今年も楽しみな春が来ました。
2年前から「あ・ぐり~んプロジェクト」(アグリカルチャーとグリーンの造語)と勝手に名付けて、ときどきイベントを行っています。
来月からは土を作り(土をいじり)、種や苗を植えていきます。
年々、参加する患者さんやご家族、職員が増えて楽しい恒例行事になってきました。
夏から秋にかけていちごや野菜を収穫し、みんなでいただきます。
冬にはまた押し花を楽しみます。
「病院でこんなことができるなんて」と驚いてくださると、心の中でひそかに「うふふ」と喜んでいる私です。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
今年も一年、いのちが循環していきます。
認知症の事例検討会が楽しく終了しました。
M男さんは、看護師がおむつを替えようとすると腕を振り回して怒り、体に触らせてくれませんでした。
ご自分が病院にいることもおそらく分かっておらず、治療の説明はまったく耳に届いていません。
気に入らないことがあるとすぐ怒り出して手元にあるものを投げつけ、目をぎらぎらとさせて飛び掛からんばかりに威嚇するので、看護師はほとほと手を焼いていました。
ただ怒りがエネルギーを消費するせいか、食事の食べっぷりは見事です。
お膳を置くかおかないうちに器に入っているものをひとつずつ空にしていきます。
ごはんつぶ一つ残さずきれいに完食。
M男さんは看護師から絶賛されて、この時だけは笑顔になったのです。
今ならこの認知症は「前頭側頭葉型認知症(ピック病)」だとわかるのですが、20年位前はそういう分類はなかったので、看護師に殴り掛かる手を数人で押さえつけ、抑制して点滴をし、おむつを取り替え、夜は薬で眠ってもらうことが当たり前でした。
体に起きている病気を治療するために、認知症が治療しづらくさせている側面があったのです。
今は認知症に対する対応の仕方も変わり、その人の生活環境を整えることで穏やかに過ごせるようになることがわかってきています。
ただ看護師だけではやっぱり情報も対応も足りないので、MSWから生活背景を教えてもらったり、看護補助者の方が生活習慣をよく知っていたりするので、それらの情報をまとめつつ、心地よかったことは何か、を探し続けていく必要があるのです。
先日行われた認知症事例検討会には、病院の向かいにある高齢者施設職員やケアマネージャーが参加してくれて、興味深い話し合いになりました。
お家では朝遅く起きるので、朝ご飯を食べないという人にとっては、病院の日課で朝早く起こされ、朝ご飯を強要されるのは不愉快なことでしょう。
当然、不機嫌になり食事は拒絶の態度につながります。
ごはんは一日2食でいいというなら、それでいいのです。
病院の看護師は病院の日課が身に沁みついていますので、3食食べていただくことが当たり前と思いがちです。
しかし看護師自身も休みの日に、ゆっくり朝寝坊して朝昼兼用のごはん、ということはよくあることです。
ここに「病院の中の正しい生活」と患者さんの日常のズレがあるのです。
よく「患者さんの気持ちを尊重して」ということが言われますが、「病院の中の正しい生活」という価値観を一度立ち止まって考える必要があるでしょう。
自分や家族の身に置き換えるとわかることも、多職種の意見を聴くことで、腑に落ちるものです。
大事なのは行ったケアを振り返って、もっといい対応はなかったか、その人に適切な環境だったかを問い続けることなのです。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
私が認知症になるのなら・・・と考えても仕方ないな。
寄りそうこころの一年に
新年度の計画を発表する時期になりました。
新年度を考えるのは楽しみでもあり、言葉にするエネルギーがいるので、少し心が重い時期でもあります。
私は自分がいつかこの病院を離れて後継者につないでいくことについて、考えています。
組織の存続を線で引いてみて、ご縁とタイミングがあってここにいるんだとよく思います。
A地点からB地点まで。そのあとは別な看護部長がバトンをもらってC地点へ。
駅伝のようにたすきをつないで組織が続いていく。
同じ路線を継承するのがいいのか、旧来にとらわれず斬新なアイデアで新しい風を吹かせるのか。
いろんな妄想をしつつ、私なりに次世代を担うマネージャーを育てているつもりです。
時代の流れに合わせて、変化しながら組織が続いていくってすごいことです。
失敗や成功を積み重ねながら、去年より今年、昨日より今日へとつながってきたんですから。
新年度の病院の目標が「寄りそう」に決まりました。
寄りそうということ。
寄りそわせていただくには、そもそも信頼関係が必要でして。
傍らに座って共に時間を過ごすこと。
患者さんのそばに寄りそっている職員に「いいケアをしているね」と応援すること。
ゆっくりそばにいられなくとも、ほんの数分でもしっかりそばにいること。
やさしく背中や手足に触れること。
ハグすること。
そばにいなくても心で寄りそい、想いをはせること。
その人の人生を大事に思うこと。
私が「寄りそう」という言葉から連想するのはこんな情景です。
少しできているところもあるんだけど、もっとみんながこのことを大事なケアだと思って実践するにはどうしたらよいか、ディスカッションがいるなあと思いました。
そこで先日の師長会で、今年度の振り返りとともに、新年度取り組むことは何か、「寄りそう」という言葉をどう解釈し、私たちの定義にするかを話し合いました。
みんなでブレーン・ストーミングを約1時間半。
日ごろから何を言ってもいい風土なので、書くのが間に合わないくらいみんなから言葉が飛び交いました。
そして「寄りそう」という言葉については、患者さんやご家族さんはもちろん、共に働く仲間に対しても寄りそい思いあう風土にしたい。
一人がみんなのために、みんなが一人のために、それを実現させたいね、という話になりました。
そして最終的に看護部の目標は「寄りそうこころ」に決まりました。
寄りそうこころを持った看護師を育てましょう。
寄りそうこころでケアしましょう。
寄りそってお互いにおもいやりましょう。
「こころ」に、そんな思いが込められました。
魂が、入ったなと思う瞬間です。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
昼寝をしてると傍らにオカメインコが寄りそってくれています。
自分の衰えを認めることについて
ある日のこと、私は地下鉄で札幌中心部へ行こうとしていました。
ICカードをチャージしようと思って誰もいない券売機に向かい、そこでお財布から千円札を2枚とカードを取り出しました。
チャージをするのにまず画面の押すボタンを間違え、
やりなおして今度はお札の入れ方が悪かったのかもう一度やり直しになりました。
機械からお札が戻ってきて、初期画面に戻るまで間が空きました。
そうしたらいつのまにか後ろにいた若い女性が
「あの、先にいいですか?」と言いながら、私と券売機の間にするりと入って切符を買って行ってしまいました。
何だか、心に黒雲が浮かぶような嫌な気分になりました。
地下鉄に乗ってその「黒雲」はなんだろうと考えました。
自分では遅くしようと思っていないのに、結果的に遅くなって他の人の迷惑になったこと。
以前なら券売機に行く前にお財布やカードを準備してもっと素早くできただろうこと。
(今日は誰も並んでないから、と気持ちが緩んでいた)
後ろに人がいる気配をまったく感じ取れなかったこと。(隙だらけ!)
若いときは私もこういうシチュエーションでは「全くおばさんは機械に弱いからなあ」とじりじりして待っていただろうに、あの女性はほんの数分も待たずに、なんというか、爽やかに横入りしたこと。
それをただ見ているしかなかった自分の情けなさ。
そういうことがないまぜになって「黒雲」になったんですね、きっと。
たまにしか乗らない券売機の画面を一瞬で理解することはできないし、できなくなっちゃったんだ、という自分の衰えを受け入れなきゃいけないんだなと思いました。
軽い風邪が治りにくくなったり、取り扱い説明書がさっぱり理解できなくなったり。
長い距離や階段を歩けなくなったり。そういうことと似ている。
それでもパソコンやスマホになんとか付いていってるのは、結構頑張っているんじゃないかと思います。
私たちの世代は人生の途中からパソコンやスマホが出てきて、それ以前の時代を知っている。
電話を持ち歩かなかった時代は、人が来るのをじっと待っていたり、どこかへ行くのに時刻表で調べていた時代。
そのことを知っているから、今がとても便利だとわかるけれども、生まれた時からネットがある世代の人たちは脳科学的に何か違いができるんではないかなと思う。
少なくとも、券売機の前でもたもたしている人にはもうちょっと寛容でいてほしいなあと思う。
なんでもIT化が進むと、こういうもたもたした人が増えるのですよ。
逆に言うと病院は高齢者が多いのだから、もっとやさしい説明を心がけなくちゃ、ね。
この話を30代の人としたら、「オートーチャージにしたらいいじゃないですか~。そしたらいちいち券売機行かなくていいんですよ」と言われました。
そ、そ、そうですね。
こうして世の中はどんどん進んでいくのですね。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
これでもその昔、新人類って言われてたんだけどね。
楽しい×人のため=業績
今週ご紹介するのは「すいません、ほぼ日の経営」という本。
私は糸井重里さんの書いたものや考え方が好きでして、うんと若かったら「ほぼ日」で働きたいと思っていたほどです。
糸井さんのようなクリエイティブな方たちの集団で、楽しく仕事している会社がこのたび株式上場したので、なんとなくその堅苦しさとマッチしてない感じがしました。
しかし糸井さんのことだから、株式上場さえも楽しむつもりかな、と想像していました。
ここはネタバレになるので、書きません・・。
この本は経営者としての糸井さんをインタビューしたもので、最後の方に社長の糸井さんが、こんな経営者なんですけれども本なんか書いてもらってすいません、というようなことを書いていて、それもまた楽しからずやなのです。
私自身「仕事とは楽しいもの」という考えがベースにあるものですから、糸井さんのように楽しそうに仕事している人には、自然に惹かれてしまうのです。
少し前に当院に入職された方から「ここの身だしなみ基準を見せてください」と言われドキッとしました。
実は作ってないんです・・と正直に答えました。
私もここへきて4年目に入り、今年は規定や基準などを見直している最中です。
本来は身だしなみ基準は「あるべき」ものでしょうけれども、職員の身だしなみで何かこれまで不都合があっただろうか、、、否。
ちょっとだらしないなーというときはすぐ注意していたし、ものすごい髪の色の人とか派手な化粧の人もいない。
つまりはみなさん自律している職員なので、あえてそこに「身だしなみはこれこれこうしなさい」という校則みたいなものはいらないかな~と思っていました。
こういうところが私、ゆるい看護部長かも知れません。
患者さんやご家族さんから見て不愉快に感じるような姿はよくない身だしなみです。
看護職員は環境の一部ですので、存在そのものが不快になるようじゃ、そもそも人相手の仕事のセンスがないということです。
例がないと困るのなら、航空会社のCAを見習えば大丈夫です。
まあそれよりも患者さんを喜ばすのに次何しようか、とか新しい病院ではこうしたいよね、という話し合いの方が断然楽しい。
糸井さんも「ルールは少ないほうがいい」って書いていたのでうれしくなりました。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
楽しいことで人のためになって業績につながれば、それが理想の経営だな。