札幌南徳洲会病院看護部長 工藤昭子の やさしさビタミンブログ
ホスピス研修生を通して学ぶこと
ホスピスでは様々なところから研修生を受け入れておりまして、今年度は13名の方がおいでになりました。
短い方で1日~長くて1か月位の間、病院の寮に寝泊まりして研修されます。
滞在する間に一度院長・事務長・ホスピスナースと共にお食事をしながら感想などを聞かせていただくのですが、みなさんいろんなカルチャーショックを受けられていきます。
「ドクターが患者さんの家族構成や生活背景についてものすごくよく知っているのに驚いた」
「朝昼に行われる他職種カンファレンスの内容が濃い」
「自分のいまいる部署では対応できないようなことでも、患者さんの願いをかなえようとしている」
「回診で椅子を持って歩き、座って患者さんの話を聴く姿」
「時間の流れがゆっくり穏やかだけど、実は看護師はものすごく細かいことにアンテナを張っていて忙しい。忙しいのにそう見せないところがすごい」
「職員がみんな対等な感じ」
などが共通したところですが、先日いらした方がこんなことをおっしゃっていました。
「吸痰(痰を管を使って吸引すること)が少ないですよね。自分の病棟では亡くなる間際まで吸痰しているイメージがあるけど、ここではほとんどそういう姿はなくて驚きました」
それについて院長が「それはね、身体がむくむと(看護師に)怒られるからですよ」と控えめな声で答えました。
食事が摂れない⇒点滴をする⇒水分量が多くなる・代謝が悪くなる⇒体がむくむ⇒肺にも水がたまり痰が増える⇒痰を吸引する⇒患者さんは辛いという構図があるので、水分量を必要最小限に投与するように気を付けているそうなのです。
身体がむくんでくると、全身を観察している看護師から院長も怒られる・・とは私も初めて知りました。
しかも痰をさらに減らす秘策もあるそうで、緩和ケアの分野ではジョーシキなのだそうです。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
研修生の鋭い視点を通して、私も勉強になりました。
大丈夫。みんな一緒に頼むよ。
私はピーター・ドラッカーの本を使った読書会で、月に1度勉強しています。
もう5年くらいになるでしょうか。
読書会のメンバーは5~10人位で、異業種の集まりです。
それぞれが「経営者の条件」という本の、決まった章を事前に読んできて集まります。
読んだ中で自分が一番ぴんときた文章に線を引き、どうしてそこに線を引いたのかについて、話をします。
体験としていろいろ感じてはいても、いわゆる概念化できてない、コトバとしてうまくまとめられていないことがたくさんあるのですが、ドラッカーの本には「そうそう、それそれ!」って思うことがぴたっと明確に記されています。
一年かけて一冊の本を読んで話し合い、翌年また「まえがき」からスタートするのですが、まったく飽きることがなく、去年は引っかからなかったコトバに線を引くこともあれば、「やっぱりこの文章がすきだなあ」と思うこともあるし、まるで初めて読んだかのような新鮮さを味わうこともあります。
そして参加者はそれぞれ違う仕事をしていますが、悩む事柄は一緒だったりするので、自分の身に置き換えて考えることがとても勉強になります。
先日は、ある方が自分の率いるチームメンバーがみんなバラバラな方向を向いていて、同じ方向を向かせるにはどうしたらいいか、という話をされました。
それぞれは能力の高い人たちなのに、一緒に協力して一つのものを作り上げようという空気がなく、困っているという話でした。
それについて別の方が「リーダーが、”このチームはバラバラだ”と思っているといつまでもバラバラなんだよね。リーダー自身が”大丈夫。みんないっしょに頼むよ。”と思えばひとつになるんだ。”あなたの強みはこれこれだから、それを使ってね”と一人一人に伝えたらいいんだよ」と、柔らかにおっしゃいました。
そのコトバは私の体の中にするりと入ってきました。
自分の見方、思いひとつだなあと思うことは私もしばしばあります。
人の心や向き合い方を変えようと思うとうまくいかない、というのもよく経験してます。
「こうするべきだと思うからこうしてね」じゃなくて、
「私はこう思うんだよね。それを一緒にやってもらいたいんだ。手伝ってくれる?」という風に伝えたら、自分も楽に伝えられる気がします。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
スポーツみていてもそんな感じがする。青学とかカーリング娘とか。
今までのケアでいいのかな・・? 認知症ケア事例検討会開催!
先日院内で「認知症ケア事例検討会」が行われました。
院内全体では初の試み。企画者も手探りで準備し、当日を迎えました。
事前に病棟・外来・ケアマネージャーがそれぞれ「この対応でいいのだろうか?」と悩んでいた事例を整理してスライドを持ち寄りました。
当院「ふくじゅそう外来」(認知症外来)の担当医である田村先生が司会進行をしてくださり、ミニレクチャーを交えながら会は進みました。
事例の概要を発表した後、3つのグループに分かれました。
参加者は自分の興味のあるテーマの方へ座り、膝を突き合わせて互いの話に耳を傾けます。
看護師・ソーシャルワーカー・介護福祉士・ケアマネージャーらがそれぞれの立場から事例発表者への質問を投げかけて、一緒に考え、時間は短いながらも密度の濃い話し合いになりました。
認知症ケアには、共通する温かい対応を基本としながら、その人個人に対する個別の対応が求められます。
何が心地よかったか、何をしていたら笑顔になったのか、誰がどう対応したらきちんと薬が飲めたのか、ご家族の心がどうやったら安定するのか、うまく行ったことを共有して積み上げていくのが遠くて近い道です。
具体性は人によって違うため、自分たちで見つけて共有していくしかないのです。
話し合いを終えて「いままでやっていたケアでは十分ではないのでは?と感じて今日とりあげましたが、皆さんの話を聴いて、今のまま続けて行っていいんだと思うようになりました。」
と明るい笑顔で話した一人の発表者。
いろんな角度から意見をもらって、最後は肯定感で終わることができて良かったなあと思います。
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初めての試みって緊張するね。
水俣を歩く
わけあって熊本に行く用事ができ、思いがけず一日フリーな時間が出来ました。
さて、どう行動しようかなと思ってスマホで検索をしかけたら、ニュースで「苦海浄土」の作者・石牟礼道子さんの訃報を知りました。
それで、熊本から水俣はどれくらいの距離だろうと調べると、JRで約1時間半くらいとわかったので、すぐに出かけることにしました。
10年程前に札幌で「水俣病展」があったのをきっかけに、病気の原因を追究した熊本大学の原田教授や写真家のユージン・スミスさん、桑原史成さんのことを知り、興味を持っていたのですが、すっかり忘れていました。
時代は1950年代の高度成長期。
水俣病とは、チッソという会社が、化学製品の原料を製造する過程で出るメチル水銀を海に流したことから、海が汚染され、そこで採れた魚介を食べた住民が中枢神経・感覚器を障害され、全身をけいれんさせながら亡くなっていくという公害病です。
治療法のない奇病・伝染病と言われて差別に会い、父親が病気にかかると仕事を失い、生活も困窮しました。
妊婦が知らずに食べていると胎盤を通じて胎児に吸収され、胎児性の水俣病となりました。
当時は同じ町内に、漁民とチッソに勤める会社員が暮らしており、会社員は羨望の存在だったそうです。
けれども徐々に会社が流している廃液が問題じゃないかと噂され、漁民が海を守るために反対運動を起こすと、会社員の家族がそれを阻止しようとして争いごとになりました。
同じ市民が対立する中、市の税収の半分は会社のおかげで潤っているという構図。
経済優先の日本社会の縮図がここにありました。
その後、国と県と会社を相手にした裁判が繰り返され、いまだに続いています。
私が忘れられないのは桑原史成さんの写真で、胎児性患者の上村智子さんが成人を迎えた時の家族写真でした。
智子さんは赤い着物を着てにっこり笑ったお父さんに抱きかかえられていました。家族や親せきがみんな笑顔で、智子さんを覗き込むように、幸せな表情をして映っている写真でした。
お母さんは「智子は宝子だ」とおっしゃいました。この子が私が食べた水銀毒を一人で吸ってくれたから、自分や弟妹も助かった。智子さんは皆の命の恩人だ、と。だから家族の中で大切にされ、暮らしたのだろうと思います。
病気や裁判の痛々しい写真の中にあって、そこだけ光り輝く温かさを放っていました。
背景にどれほどの苦悩苦痛があったのか、想像もできません。
水俣病資料館は汚染された海を埋め立てたところに建っていました。
サッカー場やバラ園、道の駅もあり、犬の散歩をする人や観光客らしきグループがいました。
水俣の海は2009年に安全宣言が出され、漁が再開されたそうです。
水俣病の公式確認から実に56年ぶりのことでした。
今日もこのブログにきていただきありがとうございます。
以前は読み終わらなかった「苦海浄土」に再チャレンジしようと思います。
人生100年を考える
「4 0 ~ 5 0代の人は 、働きはじめたとき 、 6 0代で引退するつもりだっただろう 。しかし 、あなたの職業人生は 、少なくともあと 2 5年続く可能性が高い 。しかも 、これから訪れようとしているのは 、スキルの価値が瞬く間に変わる時代だ 。そういう時代には 、手持ちのスキルでよしとせず 、新しいスキルの習得に力を注がなくてはならない 。」(序文より引用)
「Life shift 100年時代の人生戦略」をようやく読み終えました。
この本はいろんな切り口から誰かと話したくなる本です。
かつて私の上司は、定年を機にすっぱりと職を離れました。
ずっと働きづめでしたので、それまで出来なかったことに精を出し、自由を謳歌して過ごされていました。
社会とのつながりを保ちつつ、会社人生との区切りをハッキリさせた生き方は私の憧れでした。
上司の引退からすでに10年ほど経ちました。日本は健康寿命が伸びて、引退後の時間が長くなりました。
有能で、まだまだ元気に働ける人が定年というルールによって第一線を退かなければならないというのは勿体ないことです。
そして引退後に年金だけで暮らしが成り立つかどうかもわかりません。
どれだけ貯金が必要かもわかりませんし、貯まった額でこれからの老いと病気に対処していけるのか、身の処しかたには心構えがいるものです。
この本によると、人生は100年で考える時代になりました。
教育・仕事・引退後という従来の人生3クールのパターンから、引退後も働く4クール、途中で学び直す5クールへと多様化しています。
生きるために必死だった時代を過ぎ、今は思春期の時期が長くなっていて、所謂「成人」と呼ぶにふさわしい年齢は30才位に延びています。
長い仕事人生にさらにスキルアップの期間を持ち、定年後の次のステージをもっと専門的か、あるいは別な仕事で変身するために備えておく必要があると書かれています。
ピーター・ドラッカーも同じ話をしていますが、より具体的で現実に迫っており、既存の概念を変えようと明言しています。
看護師の場合、仕事の方向性によって認定看護師や専門看護師に進む時には、一定期間職を休んで大学などへ行くことがあります。
そのような時の生活や給与の保障制度はなく、所属する組織が個別に判断する状態です。
半年間の認定看護師課程に進むために、仕事を辞めざるを得ず、貯金を300万はたいて資格を取った人を知っています。
彼女はその後別な病院に就職し、取った資格を活かして大活躍しています。
元所属していた病院にとってはこれは大きな損失ですね。
暴論かもしれませんが、私は看護師たちが皆興味のある何らかの認定資格を取ればいいと思っています。
診療報酬が、とか専従で、とかに関わらず何らかの専門分野を極めた人が普通に配置されていて、現場のケアをよくするために活躍していたら、それだけでも患者さんにとっては大きな福音だと思うのです。
誰でも、学びたい時に公平に学ぶことが出来て、その間の職場も人が補充され、給与も保障される。
学び終えたら安心して元の場所に戻ることが出来るような、組織を超えた公的な仕組みがあるといいのになあ・・と思います。
今日もこのブログにきていただき、ありがとうございます。
やるべきことがやりたいことになればシアワセ。
カンフォータブルケアのその後
こんにちは。札幌南徳洲会病院の工藤です。
昨年から私たちの病院では認知症高齢者への「カンフォータブルケア」を取り入れることにしました。(その経緯はこちら↓)
南さんの講義に感銘を受けた私たちは、師長たち6名で南さんの職場を実際に見学させていただきました。そこで朝と夕方のミーティングにカンフォータブルケアの秘訣があるということを知りました。
朝礼では今日患者さんに話しかけるコトバを一人のスタッフが発表します。
「今日はすっきりしたお天気ですね」というようなコトバを。
明るいフレーズを意識的に考えるそうです。
そのコトバを他のスタッフも復唱します。
そして二人ペアになって、笑顔の確認をするのです。
笑顔とコトバ。
この二つを明るくポジティブなものにして、働く側の姿勢を形作ってから患者さんのところへ飛び出て行きます。
患者さんの元へ行ったスタッフはそれぞれが「今日はすっきりしたお天気ですね」と声をかけます。認知症の患者さんはそのコトバを聞き、「ああ、今日はすっきりしたお天気なんだ」と思うでしょう。そこにいる方皆が同じコトバを聞き、忘れ、また別の人から聞く。声をかける人は笑顔。この繰り返しがすばらしいと感じました。
終礼では、「今日のいいこと」を発表し合います。
「今日は○○さんが昭和歌謡を歌って笑顔を見せてくれた」
「今日は△△さんがいつもより食欲があってうれしかった」
というようなことを。
これは「嫌な気持ちを(家に)持って帰らない」で、「忙しかったけどよくがんばった」という肯定的な気持ちで仕事を終えることが大事なんだと南さんは言いました。
「ああ、疲れた」とつぶやくと、聞いている周りの人も「ほんと疲れた」とテンションが下がるのです。
だから否定的な言葉ではなく、みんなよくやったね、そうだね、と互いをたたえ合って終わりにする。
これはすごくいい!
そこで私たちもこの朝礼と終礼を取り入れることにしました。
特に終礼では「今日良かったことを発表する」というのが定着してきました。
「今日はころびそうな人がたくさんいる中、誰ひとり転ばなかった。みんな頑張ったね」
「今日はひとり欠員がいたけど、みんなで協力してちゃんと終わったことに感謝します」
時には旅立たれた方のことを想い、しんみりと語り合うこともあります。
「今日のいいこと」は当番ではありません。
誰が当たるかわからないので、スタッフは心の中で今日のいいことを探しています。
「あ、今日はこれ言おう!」とネタを見つけた人はそのことを発表するのを実は意識して終礼を迎えるのです。
よいコトバを意識して発することが習慣になると、行動も変わる。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
私はワクワクしながら、そこのところに注目しています。
坂本すがさんの講義を聴いてきました!
こんにちは。札幌南徳洲会病院の工藤です。
平成30年1月19日、サードレベル10期生の特別講義を聴講してきました。
サードの修了生は、何年経っても講義の聴講ができるのです。ウレシイ特典です。
特別講義は受講生の希望を聞いて、大学が調整してくれるのですが、今回の講師は日本看護協会前会長の坂本すがさんでした。
その話を知ったとき「すごーい!坂本すがさんを呼ぶなんて」と思いました。
私にとっては遠い雲の上の方です。
数年前、北海道看護協会の支部の仕事をしている間に2回ほど看護協会の総会に行ってきました。壇上でお話をする坂本会長のお話を聴きましたが、言葉の端はしに飾らない人柄が表れて、「この人が上司だったらどんな職場だろうなあ」と思ったものです。
特別講義では、ご自身の体験をベースにしながら、看護管理者とはどんな存在か、社会の変化について、将来に向けたビジョン、これからの管理者に期待することなどをユーモアたっぷりに語ってくださいました。
「人の話は本当にそうか?!と批判的に聞け」
「自分の内なる言葉で語れないと人は動かせない」
「自分の病院のことばっかりじゃなく、この地域はどうあるべきか考えていくリーダーが必要」
「50代からセカンドキャリアの準備を」
など、キーワードを一杯もらいました。
一番心に残ったのは、
「仕事は楽しくないと意味がない」という言葉です。
自分で問いを立てながら自分の考えを持ち、わくわくしながらアクションを起こし、人間力を鍛えろ、という続きにおっしゃったコトバでした。
そして読みたくなる本の話題もたくさんされたので、今年の課題図書にしようと思います。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
せっかく本も持っていたのに!サインもらいたかったな。
認定看護管理者サードレベルの実習生とのご縁
こんにちは。札幌南徳洲会病院の工藤です。
1月15日・16日の2日間、札幌市立大学で開講している認定看護管理者サードレベルの10期生がお二人、当院の実習に来られました。
こんな小さな病院に、ご縁をありがとうございます。
看護師もキャリアを積むうち、自分の専門性を高めたり、なんでもできるジェネラリストの方向に進んだり、ふと自分はどの方向に進むのか、キャリアを考えるときがあります。
「ずっとこの道でいいのか」「この病院(施設)で働き続けるか」
看護管理者も一人の人間なので、自分の不得意なことにコンプレックスを感じたり、この道でいいのかと悩み迷ったりします。
私はこのサードレベルの3期修了生です。
北海道の看護管理者研修はファーストレベル・セカンドレベルが北海道看護協会で行われ、サードだけが札幌市立大学で行われます。
大学に行ってない私は、大学という場所に身を置くことがうれしかったりしました。
そしてファースト・セカンドとは違ってサードは答えなき答えを見つける場所と言ったらいいでしょうか。禅問答のような質問が飛んできて、自分が何を持っていて何をどう考えているのか(考えていないのか)を突き付けられる場所でした。
目の前の事象だけに振り回されるな、そして小手先で解決しようとするなと教わった気がします。軸をしっかりと持ち、自分の思想を持ち、それを人に伝えて理想とする看護の場を実現するために、私は何をするのか。それを論理的に考える、トレーニングの場だったのです。
ちゃんと世の中のことを知ろうとしてなかったよな。
身の回りで起きていることを俯瞰して考えられてなかったよな。
そして知識のなさ、本をろくに読んでないこと、エトセトラ。
友が皆、我より偉く見える・・。
ガーンとなり、2期目が終わるころ(サードレベルは3期に分かれています)にはひどく落ち込みました。
でも仲間に支えられ、先生方の教えに導かれなんとか卒業できました。
遠くから来てくれた後輩たちには、私の知っていること、体験したことは、へなちょこで情けないことも含めてアウトプットできたと思います。
管理者も一人の人間。看護部長だからって完璧ってことはありえない。
生きてる限り、学びの途中なんだと割り切っていくしかない。
結局は自分の得意なことと周りの人の力を借りながら前に進むしかない。
彼らがどんな管理者になっていくのかな~
互いの話を聴き合いながら、私もたっぷりエネルギーをいただきました。
この人たちが日本の看護業界を変える人かも知れない、そう思うとワクワクするのです。
いやいや負けちゃいられません。私は日本一のいい病院創るつもりですよ!
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
アウトプットは自分の振り返りになるね。
やさしい手、やさしいコトバ
歯医者に通うようになってもう4年目になります。
治療は最初の1年位で終わり、今は定期チェックとクリーニングだけに通っています。
先日「工藤さん磨き方が上手になりましたね。定期チェックの間隔をもうひと月延ばしましょう」とお褒めのコトバをいただきました。
私はこの歯科衛生士さん(Sさん)に絶対的な信頼を置いています。
治療していた1年間は、その都度日替わりの衛生士さんでした。
その中でひとりだけ、コトバのかけかたと手の触れ方が特別やさしい人がいました。
歯医者というところは寝椅子に座って身体を預け、「痛かったら合図してください」と言われる場所です。金属的な器械の音に気圧されて、完全に主体性はなくなり、いつ痛くなるのか、あるいは痛くなく済むのかもわからないので、終始身を固くしてじっと構えているしかありません。
そういう患者の心理と緊張をちゃんと推し量り、Sさんは「今は息をついて、力を緩めていいですよ」とか「さあこれからまた口を大きく開けてください」という構えをこまめに教えてくれるのです。私は素直にそれに従い、緊張と弛緩を繰り返しました。
毎回治療が済むと、他の歯のメンテナンスがあります。
Sさんは「この音、怖い感じがしますよね」と共感したうえで、「今日はこれを使うのは前の歯だけですから」と覚悟をつけさせてくれようとする。
器具を口に入れる瞬間の、手指の添え方がやさしい。
終わりころになると「あともう少しで終わります。」と目途を伝えてくれる。
Sさんは毎日毎日何十人も同じことを繰り返す。でも受け手の患者はそれぞれ違うわけで、今日その人は1回の治療に来ただけです。
あたりまえだけど、今目の前にいる患者のことを思って同じ声掛けを繰り返すのですね。
そこに一切の手抜きはなく、それが手とコトバを通して伝わってくるから、Sさんに安心して委ねることができるのです。
治療が完了してあとは定期チェックに通うことになった時に、私は考えました。
メンテナンスは歯科衛生士さんの仕事だから、できることならずっとSさんにやってもらいたい。
この人だったら私はストレスなく通える。
わがままかも知れないが、ダメもとで「歯科衛生士さんを指名できるでしょうか?」と尋ねてみると、できると言う。
私は小躍りする気持ちでした。
それから3年になります。
今のところ虫歯もなく、歯周病もなし。ありがたい。
万一この人が別なところに転職したら、ついて行こうと思っています。
翻ってわが医療の場でも、やっぱり信頼できる人は同じ。
正しい知識と技術を兼ね備えた土台があって、それを伝えるコトバや手がやさしく丁寧であること。
これに尽きますね。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
仕事は人格につながっていると思う。
夜更けの事情
毎晩夜中の3時頃になると起きだして、ベッドの横にある床頭台(”しょうとうだい”と言います。引出の付いた物入れのこと)に入っているものを、出してはしまい、しまっては出す、を繰り返しているのは76歳のS子さん。
大部屋なので他の方が物音で目を覚ましてしまい、ついにうるさいと苦情を言われてしまいました。
当直の時に観察していると、確かに3時になると起きてベッドサイドにかがみこみ、戸をあけて中に入っている着替えの包みや洗面道具を出したりしまったり。
腰椎が折れて、入院した時には痛みで動けなかったとは思えない屈み方です。
看護師がやんわり止めようとする声は耳に入りません。
眼はぱっちりしているけれど、視点がここにないのです。
今なら「せん妄だね」と理解できるのですが。
「30分くらいでぴったり止めて、いつのまにかまた寝るんです」と受持ちナース。
後日ご家族に聴いてみましたら、ご自宅でコンビニを経営されていて、夜中の3時ころにお弁当が届くそうなのです。
息子さん夫婦が夜ぐっすり休めるようにとS子さんが夜中に起きて、工場から届くお弁当を受け取り、お店の食品棚に陳列するところまでを毎日の日課にしていたのだとか。
腰の骨が折れて入院しても習慣が消えずに続いていたんですね。
その様子を聞いて、息子さんが涙ぐみました。
数日後、痛みが落ち着いているということで、S子さんはご自宅に帰って行かれました。
約20年前の話ですが時々思い出すのです。