”患者さんに寄りそう”ってよく言うけれど
4月21日札幌市内で「死の臨床・北海道支部春の研究会」があり、今年度から支部長になった田巻知宏先生(北海道消化器科病院)の特別講演とシンポジウムを聴いてきました。
田巻先生は東北の大震災後に、被災者の健康と心をサポートする「お医者さんのお茶っこ」という活動を今年の3月までされていたそうです。
また北海道に子供ホスピスを作るプロジェクトでも活動されていて、それらの幅広い実践活動が緩和ケアとも結びついているので、講演内容は深く広く考えさせられました。
グリーフ(悲嘆)は乗り越えるのではない
「私たちは人生の中でグリーフ(悲嘆)を何度となく経験します。亡くなるというだけじゃなく、大切な人と別れたり、物を失くしたり、愛着のある場所を離れたり。その人個人の歴史と将来に関わることです。グリーフを乗り越えるというのではなく、時間と共に受け入れていけるようになるものです。」
「回復のために必要な時間はその人により様々ですが、おおよそ2年から5年かかるといいます。その悲しみを忘れることはないけれど、少しずつ今この時が幸せだと感じられる時間が出てきて、ちょっとずつそれが長くなっていくことで人は回復していくのです」、と田巻先生はおっしゃいました。
なるほどな、自分自身のことを想い返してもそうだな、と納得します。
前のめりな寄り添いは時に迷惑なことがある
講演のあとシンポジウムがあり、おひとりの患者さんを病院~緩和ケア外来~在宅の連携で関わった経緯について、それぞれの立場から発表されました。
発表後の質疑応答の中で「患者さんに寄り添うってよく言うけど、前のめりな(医療者都合の)寄り添いは時に相手にとって迷惑なことがある」という発言も印象的でした。
私たちは必要なときにすうっとそばにいることができているだろうか?
忙しいことを理由にほんの数分だけ共に過ごすことを先延ばしにしてないだろうか?
あるいは相手が必要と自覚していなくても、先を見越して傍らにいることができているだろうか?
心が伴っているだろうか?
そしてそれは本当にその人の役に立っているのだろうか?
それは患者(家族)さんにしかわからない。
「患者さんの立場になって」というのと似てる。耳障りのいいコトバだけど、そもそも患者さんの立場になんかなれっこない。だから近づいて患者さんの思いを聴き、これでいいのかを確かめる、謙虚になって教えていただくということが大事なんだな、と改めて感じました。う~ん、正解なんてないよね。深いなあ。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
「ああ、あれでよかったんだな」と思えるのはだいぶあとになってからわかったりするもんね。