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看護部からのお知らせ

北海道胆振東部地震発生 その1

2018.9.6 朝3:08に発生した北海道胆振東部地震。
突き上げられる揺れが長く続き、すぐに目が覚めた。
直感的に震度5ぐらいはあると感じ、テレビをつけると速報で震度6という。
急いで服に着替え、ざっと支度を整えた。
病院まで信号は一つもついておらず、真っ暗闇だった。
そろそろと運転しながらも、街灯がないのできれいな星空だなと思いながら走っていた。
病院前の旧国道に入る。私の前に数台の車がいて、下り坂をゆっくり進んでいると、前の車が途中で停車しては右折しだした。
なぜ直進しないのだろう。私の前の車が全部右折するのでこれは何かあるなと思い、停車して車を降りた。目視するが暗くてよく見えない。
ただ真っ暗な中に道路が濡れたようにぬらぬらと光っているのが見えた。
道路がゆがんでいるようにも見える。
他の車に倣って私も右折することにした。
そうしたら右折した車が引き返してくる。
この先も通れないのか?
何が起きてる?
と思って窓を開けた瞬間「部長、この先は液状化していて通れません。サブロク(国道36号線)に回って迂回したほうがいいです」と、職員が車から顔を出して教えてくれた。

病院につくと院内は当然真っ暗で、ばらばらと職員が集まり始めていた。
この時はまだ非常電源が作動していたので、各病棟の詰め所も明るかったし、廊下にも非常灯の小さい明りがついていた。
床頭台から物が落下したりはしたが、患者さんには大きな影響はなく、混乱もなかったので、とりあえずほっとした。

最初のミーティングは朝4時に行われた。
1Fフロントに職員が集まって、事務長がホワイトボードに情報を書き出し共有した。
水は貯水槽にある程度入っている。
非常電源のリミットは残り2時間で、燃料の軽油を補充すれば1時間くらい延びるということだった。
このときは、停電があんなに長く続くとは思っていなかった。
当然電子カルテのサーバーはダウン。
PHSと電話は使える。できること、できないことがはっきりしだした。

夜明けが来て病院前の道路が冠水しているとわかった。
単なる水ではなく泥流になっている。泥に埋まって抜けられない車がいる。
厨房は半地下にあるため、人海戦術で朝食のお膳を病棟に上げた。
夜中に集まった職員のために近くのコンビニに買い出しに行ったが、途中の道路でもマンホールが道路から突出していたり、すでに断水している住民が公園に水くみに来たりしていた。

5:00全体ミーティング
手書きの紙カルテを使うことにした。
検査・レントゲン・透析は電気がなければまったく動けないので最少人数にして自宅待機となった。
今日の外来対応はかかりつけとwalk inのみ。
入院のベッドを確認。満床に近い状態だったけれど、2~3名分はなんとか確保できる。
その後2時間おきくらいに全体ミーティングをした。
停電が長引きそうだとわかり、自家発電のための軽油を手配したいが、スタンドがすでに込み始めていて、簡単には買えなくなってきた。
病院から10キロ以上離れているスタンドでようやく確保ができることになったが、信号が消えているので、買って帰るまでに2~3時間かかった。
自家発電に補給するとすぐに次の軽油を買いに行かなければ間に合わない、という自転車操業になってきた。

副院長がEMIS(広域災害救急医療情報システム)に当院の状況をスマホから登録していた。
複数名の人工呼吸器の患者さんが入院していて、この不安定な電気の状態では患者さんの安全を守れないのではないかと話し合った。
患者さんにとっては慣れた看護師から離れることになるし、転院は相当な負荷がかかるけれども、電気がなければ医療者が手作業で呼吸を補助し続けることになる。いつ復旧するかわからない状況ではリスクが大きすぎる。情けないが安全が優先だ。
EMISを通じてDMAT(災害時医療派遣チーム)から連絡があり、患者さんを電力の安定した北大病院へお願いすることにした。DMATはdoctorも含め救急車で到着し、近くの公園に来ているドクターヘリまで運び、ピストン輸送してくださるということだった。


エレベータが使えないので患者さんをひとりひとり担架で運び、全員が救急車に乗ったのは夕方17時を過ぎていた。
「すぐまた会えるからね」と師長が患者さんに手を振って、送り出した。
電気さえあれば。軽油さえ安定的に供給できれば。悔しい気持ちは正直言ってある。
患者さんにとっても見知らぬ病院に行くのは不安だったろう。

でもこれは最善の選択だった。
なぜならその直後に、2機あった非常電源のうち1機が、オーバーヒート前の自動制御システムのため、停止したからだった。そういう機能があることも正直知らなかった。それで2階病棟の詰め所や廊下の電気は完全に消え、暗闇になってしまった。
そして壁についている吸引器の吸引圧が低下して、動作が不安定になった。
間一髪だった。

同時進行で透析患者の移送が始まっていた。当院では透析はできないので、関連病院の設備を借りて、15時過ぎから透析を行うことになったのだ。
自宅にいる方と入院中の方を順次移送して、全員終了したのは22時過ぎだった。

副院長・事務長・資材課・師長1名・施設管理の職員ら数名が泊まり込むことになった。
職員の食糧がないことを案じて、帰宅した職員が大きな食パンを届けてくれた。
このころ中央区や厚別区で一部電気が来たという情報が入り、病院周辺でもすぐ隣まで電気が来ていたが、なぜか病院には来なかった。同じ区内で復旧はまだらだった。
こうなったら最悪長期戦を想定して動くしかない。
保健所や厚労省からも直接お電話をいただいたが、電気さえくれば、あらゆることが解決するのに。

あとは暗闇との闘いだった。
(つづく)