2018年4月
イトイさんちのブイヨンちゃん
糸井重里さんの飼い犬「ブイヨン」ちゃんが今年の3月に旅立って早1か月が過ぎました。
「ほぼ日刊イトイ新聞」に写真で出ていて、ボール遊びしている姿だったり、お昼寝してたり、タオルに潜り込んでオブジェのようになる「梱包芸術」の姿を見ていたから、まるで隣の家の子のように勝手に思っていました。
ブイヨンを喪ってからのイトイさんは、その日その時の心情を「ほぼ日刊イトイ新聞」に書いています。
「くっつく、なでる、いっしょに寝る。そういうことだけで愛しているつもりだったぼくは、実はほんとに愛していたんだと、知ることになった。目の前から消えてさえも、ぼくらはすっごく仲良しだ」(3月27日)
夫婦で新幹線で旅に出るときも、いつもはお弁当を買うときに一人は車内でキャリーケースに入ったブイヨンといっしょにいる必要があったのだけど、初めて二人で一緒にお弁当を選んでいる。ブイヨンがいないことでできるようになったこともあるけれど、だからこそブイヨンの不在を改めて感じる、という内容には、思わず涙腺が緩みます。
糸井さんは書くことでブイヨンを想い、ココロの中を吐きだし、悲しみを味わい客観的になっていく。
その文章を読む私たち読者も追体験している、そして勝手に隣に座っている気持ちになる。
一度も会ったことはないのに、不思議ですけどね。
それでつい、本を買って思い出に浸っています。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
何度でも、本なら読み返すことができる。
”患者さんに寄りそう”ってよく言うけれど
4月21日札幌市内で「死の臨床・北海道支部春の研究会」があり、今年度から支部長になった田巻知宏先生(北海道消化器科病院)の特別講演とシンポジウムを聴いてきました。
田巻先生は東北の大震災後に、被災者の健康と心をサポートする「お医者さんのお茶っこ」という活動を今年の3月までされていたそうです。
また北海道に子供ホスピスを作るプロジェクトでも活動されていて、それらの幅広い実践活動が緩和ケアとも結びついているので、講演内容は深く広く考えさせられました。
グリーフ(悲嘆)は乗り越えるのではない
「私たちは人生の中でグリーフ(悲嘆)を何度となく経験します。亡くなるというだけじゃなく、大切な人と別れたり、物を失くしたり、愛着のある場所を離れたり。その人個人の歴史と将来に関わることです。グリーフを乗り越えるというのではなく、時間と共に受け入れていけるようになるものです。」
「回復のために必要な時間はその人により様々ですが、おおよそ2年から5年かかるといいます。その悲しみを忘れることはないけれど、少しずつ今この時が幸せだと感じられる時間が出てきて、ちょっとずつそれが長くなっていくことで人は回復していくのです」、と田巻先生はおっしゃいました。
なるほどな、自分自身のことを想い返してもそうだな、と納得します。
前のめりな寄り添いは時に迷惑なことがある
講演のあとシンポジウムがあり、おひとりの患者さんを病院~緩和ケア外来~在宅の連携で関わった経緯について、それぞれの立場から発表されました。
発表後の質疑応答の中で「患者さんに寄り添うってよく言うけど、前のめりな(医療者都合の)寄り添いは時に相手にとって迷惑なことがある」という発言も印象的でした。
私たちは必要なときにすうっとそばにいることができているだろうか?
忙しいことを理由にほんの数分だけ共に過ごすことを先延ばしにしてないだろうか?
あるいは相手が必要と自覚していなくても、先を見越して傍らにいることができているだろうか?
心が伴っているだろうか?
そしてそれは本当にその人の役に立っているのだろうか?
それは患者(家族)さんにしかわからない。
「患者さんの立場になって」というのと似てる。耳障りのいいコトバだけど、そもそも患者さんの立場になんかなれっこない。だから近づいて患者さんの思いを聴き、これでいいのかを確かめる、謙虚になって教えていただくということが大事なんだな、と改めて感じました。う~ん、正解なんてないよね。深いなあ。
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「ああ、あれでよかったんだな」と思えるのはだいぶあとになってからわかったりするもんね。
日本の医療ドラマは見ない・・でも。
私、アメリカのテレビドラマが好きです。
最近はタブレットをベッドに持ち込み、アマゾン・プライムやHULU(フール―)で配信されている連続ドラマを、一日1話ずつ見るのを楽しみにしています。
かつて「ER緊急救命室」というドラマが大好きでした。
アメリカ・シカゴの病院の救急センターが舞台の一話完結ものでしたが、登場人物一人一人のエピソードがあって、試練と成長、恋愛と別れ、患者の人生ドラマが面白くて医療知識としても勉強になりました。
神の手というよりは実直に考え努力したり、仕事はできるのに家庭生活がうまくいってなかったり、傲慢でいけ好かない奴だけど、実はヒューマニズムが見え隠れしたり。
現実にも「いるいる」と思うような人物が魅力的に描かれていました。
http://www.superdramatv.com/line/er/
そのドラマが発端かどうかはわかりませんが、この10年あまり日本でも医療系のドラマが結構放映されたと思います。
でも私はあんまり見ませんでした。なぜかって、いろいろツッコみたくなるから(笑)。
「私、失敗しませんから」の名セリフくらいにデフォルメされちゃうと、かえってギャグだと思えますが、「こんな会話はないよなあ」とか「こんな若い医者ばっかりだったら不安だなあ」とか「患者さんてまっすぐ天井向いて寝てないしね」なんてことについつい目がいってしまうのです。
そしてよくある屋上シーン。病院管理上、屋上ってあんまり気軽に出入りできる場所じゃないはず。
たいがい施錠されてて。演出としては使いやすい場所なんだと思うけど、医療者としては「ない」なあ。
そういいつつ、それらの医療ドラマに憧れて看護師を目指す若者もたくさんいるので、夢は壊さない方がいいですね。
これからは在宅のドラマ、とりわけ自宅での看取りのドラマが増えるといいのかも。
さて表題ですが。
普段日本の医療ドラマは横目で感じているだけの私ですが、「ブラックペアン」は見てみます。
なぜかって日曜ドラマのヒット枠だし、主演が二宮くんだし(笑)。
http://www.tbs.co.jp/blackpean_tbs/
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予告じゃあ研修医にしか見えない(^^ゞ
30秒の家族ケア
もう年度が替わってしまったのですが、3月に看護部教育委員会で計画した「家族ケア」の講義がありました。29年度はこの「家族ケア」とグリーフケア委員会で企画した「グリーフケア」の研修とがぴったりマッチして、看護者がどのようにご家族を支えるかを看護師側とご家族の声から聴くことができました。
看護師が看護師になる理由の中には家族や親しい人の、病気にまつわる体験をきっかけにしていることがよくあります。「家族ケア」で講義をしてくれたナースQさんも、お母様の旅立ちのプロセスに家族ケアの物語がありました。
Qさんは入院していたお母様に対し、看護師でありながら今一歩近づけない、体に触れられない気持ちでいました。
患者さんだったらなんということもない行為も、家族であるがゆえに手が出せない気持ちだったのです。
そして危篤のお母様をそばで見守りながら、何もできない自分を責めていました。固い椅子に座って夜通し付き添った朝方、看護補助者の方が顔を拭くための熱いタオルを一本Qさんに手渡しました。
「ほれ、お母さんの顔、拭いてやんな」と一言声をかけられて、彼女は突き動かされるようにそのタオルでお母様の顔を拭くことができたのです。
Qさんは「今考えると初対面の家族に、”ほれ”はないだろうと思います。けれども私にはあのときの補助者の方が、”この娘さんは一晩中母親に付き添っているけれども、何もできないでいるんだな。きっかけがあれば何かできたと思うかな”、と一瞬で見抜いたんじゃないかと思います」と話しました。
この補助者の方がそこまで鋭い視点を持っていたかどうかはわかりませんが、とにかくQさんはその人の一言に救われ、行動ができたのですね。それが30秒の家族ケアだったと彼女は話してくれました。
「さあ家族ケアをしましょう」という構えではなく、日常の中の様々な場面に家族ケアのチャンスはあると語っているのです。
本年度の教育委員会もこの「家族ケア」を引き続きやっていこうということになりました。
「うちの病院だからこそ、ここは大事にしていきたいよね。こういう話は何回聴いてもいいよね」というコトバが教育委員の中から出たのが私にはうれしいことでした。
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関心を寄せることなんだよな~。
病いという経験を語ること・聴くこと
「病いは経験である」というコトバを最近頭の中で反芻しています。
アーサー・クラインマンという精神科医で医療人類学者の著書「病いの語り」の冒頭に書かれたコトバです。
急性であれ、慢性であれ、それまでの日常に未知の経験が加わることが病いですから、それはその人・その家族にとって個別の経験となるものです。その時々で何を選択するのがいいのか、どう解釈するのがいいのかを模索しながら、それでも人生は進んで行きます。
個人的なことで恐縮ですが私は昨年から突然全身に皮膚トラブルを発症しました。
特に手荒れがひどくていまも治療中ですが、悪化と軽快を繰り返しています。
体質的なものなので「治る」ということはなく、つきあっていくしかない慢性状態になりました。
これとてひとつの経験です。
重い病気の方に比べればたいしたことはないのですが、手荒れがひどくて常にどこか割れて出血していること、洗髪の時が一番つらいこと、保湿が大事で常に綿手袋をしなくてはならないこと、水を使う食事の支度や片付けが億劫になったことなど、日常生活に少なくない変化がありました。
今はアトピー性皮膚炎で苦しむ方の気持ちが少しわかるようになりました。
ときどき看護師たちが「部長さん手はよくなりましたか?」と聞いてくれます。
忙しい彼女たちにいろいろ語ることはしませんが、そうして自分ごとに関心を寄せてくれるだけで、心がふわっと丸くなるのを感じます。弱っているときには経験を聴いてもらうことが、なによりのケアになると思います。
逆に、ご家族にがんと診断された方から驚愕の心持で相談を寄せられることがあります。
これは専門家としての意見を求められている場合もあれば、「この驚きを聴いて受け止めてほしい」という場合もあります。
私はがんの専門家ではありませんが、「この人に聞いてみよう」と思っていただける以上、できるだけ力になりたいと思います。
他者の病の経験をお聴きして近づき、自分ごとにも重ねてより深く考える。
終わりのない学びです。
今日もこのブログに来ていただきありがとうございます。
「ここに来たらよく話を聴いてもらった」っていいよね!