https://sapporominami.com/nurse/

文字の大きさ変更

サイトマップ
0118830602

看護部からのお知らせ

水俣を歩く

わけあって熊本に行く用事ができ、思いがけず一日フリーな時間が出来ました。
さて、どう行動しようかなと思ってスマホで検索をしかけたら、ニュースで「苦海浄土」の作者・石牟礼道子さんの訃報を知りました。
それで、熊本から水俣はどれくらいの距離だろうと調べると、JRで約1時間半くらいとわかったので、すぐに出かけることにしました。
10年程前に札幌で「水俣病展」があったのをきっかけに、病気の原因を追究した熊本大学の原田教授や写真家のユージン・スミスさん、桑原史成さんのことを知り、興味を持っていたのですが、すっかり忘れていました。

時代は1950年代の高度成長期。
水俣病とは、チッソという会社が、化学製品の原料を製造する過程で出るメチル水銀を海に流したことから、海が汚染され、そこで採れた魚介を食べた住民が中枢神経・感覚器を障害され、全身をけいれんさせながら亡くなっていくという公害病です。
治療法のない奇病・伝染病と言われて差別に会い、父親が病気にかかると仕事を失い、生活も困窮しました。
妊婦が知らずに食べていると胎盤を通じて胎児に吸収され、胎児性の水俣病となりました。
当時は同じ町内に、漁民とチッソに勤める会社員が暮らしており、会社員は羨望の存在だったそうです。
けれども徐々に会社が流している廃液が問題じゃないかと噂され、漁民が海を守るために反対運動を起こすと、会社員の家族がそれを阻止しようとして争いごとになりました。
同じ市民が対立する中、市の税収の半分は会社のおかげで潤っているという構図。
経済優先の日本社会の縮図がここにありました。
その後、国と県と会社を相手にした裁判が繰り返され、いまだに続いています。

私が忘れられないのは桑原史成さんの写真で、胎児性患者の上村智子さんが成人を迎えた時の家族写真でした。
智子さんは赤い着物を着てにっこり笑ったお父さんに抱きかかえられていました。家族や親せきがみんな笑顔で、智子さんを覗き込むように、幸せな表情をして映っている写真でした。
お母さんは「智子は宝子だ」とおっしゃいました。この子が私が食べた水銀毒を一人で吸ってくれたから、自分や弟妹も助かった。智子さんは皆の命の恩人だ、と。だから家族の中で大切にされ、暮らしたのだろうと思います。
病気や裁判の痛々しい写真の中にあって、そこだけ光り輝く温かさを放っていました。
背景にどれほどの苦悩苦痛があったのか、想像もできません。

水俣病資料館は汚染された海を埋め立てたところに建っていました。
サッカー場やバラ園、道の駅もあり、犬の散歩をする人や観光客らしきグループがいました。
水俣の海は2009年に安全宣言が出され、漁が再開されたそうです。
水俣病の公式確認から実に56年ぶりのことでした。

今日もこのブログにきていただきありがとうございます。
以前は読み終わらなかった「苦海浄土」に再チャレンジしようと思います。