おはようございます。お題の通りです。北海道ではない。こんな暑さで始まった8月です。札幌も午前中にすでに
30℃になっております。こんな中、自転車で出勤しました。汗だくです。暑さに体を慣らそうと思ってはいます
が、そんなところではありません。病院内も暑いです。職員からは建物が古くて怒られています。結局、また
今年もこんなに暑くなり病棟が暑すぎます。もちろん医局も・・・。早く新しい病院が建ちますように。心から
祈っています。
それよりも早く涼しくなって欲しいなあ・・・。今日は当直ですが、こんな寝苦しい夜にちゃんと眠れるので
しょうか?
(先週はようやく暑い夏がやってきて良かったなどと言いましたが撤回します。m(_ _)m )
カテゴリー: 病院関連
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✴︎ 病院関連何じゃ、この暑さは!
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✴︎ 病院関連病院機能評価受審しました
みなさん、こんにちは。ご無沙汰しております。6月も半ばを過ぎましたが、ブログの更新が
遅れています。楽しみにしている方には申し訳ありません。さて、今回は表題のことです。昨日、今日と病院機能評価を受審しました。平成15年に当院に
ホスピス病棟を開設した後、第三者評価として平成16年8月に初めての病院機能評価を受けました。
それ以降、5年おきに受審をして更新をしてきました。今回は初回から数えて4回目になります。
今回の病院機能評価はケア・プロセスということを重視し、病院で行われているチーム医療の
実態を評価していただきました。以前は、体制の整備やマニュアルの整備に追われ、これは
出来ている/これは出来ていないということに終始した感がありましたが、今回の受審では
当院で行われている多職種によるチーム医療がどのようになっているかを見てもらいました。
院長の私としてはいつもやっていることを普段通りに発表すればいいとは考えていましたが、
それでもみんなは資格試験を受けるかのように、ドキドキして準備をしていました。
昨日・今日の本番は緊張した面もありましたが、概ね自分たちのやっていることをしっかりと
見てもらえたと思います。十分しっかりやっていますねと言われた面もあれば、改善の余地は
あり、時代の要請として病院に求められていることをさらに充実して欲しいという機能評価の
方たちの願いもこちらには伝わりました。正式な受審の結果は後日ですが、何とか無事終わり、今私は放心状態です。疲れがどっと出ました。
今日は札幌ドームは巨人戦です。テレビの前で、ビールを飲みながらファイターズの応援ですね。
(また、ファイターズの話題を出したと叱られそうですが。)
大田泰志選手、公文克彦投手と巨人に恩返しする選手の活躍も楽しみです。
そうそう、吉田光輝君素晴らしいピッチングでしたね。また次世代の選手が出てきました。
昨日までの広島との3連戦はまた若い選手がたくさん出てきて、ファイターズの裾野の広さを感じました。頑張れ、ファイターズ!
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10連休が終わりました
みなさん、こんにちは。ゴールデンウィーク10連休みなさんはいかがお過ごしたかか。いくつかのニュース
では10連休という前代未聞の連休はやり過ぎという批判も出ていますね。休みすぎで学校や会社に出るのが
おっくになる人がでるのはあたりまえですね。われわれ医療者は休みだからといって全部休めるわけでなく
みんなで交替で出勤しました。10日連続で病院の外来をやらないのも色々と弊害がでるのではないかと思い、
連休の中間に当たる5月2日は通常診療としてみんなに出勤してもらいました。自分としては一度仕事に戻る
ことでたまった仕事をこなせるし、また逆にリフレッシュできたのではないかと思いました。連休中は我が北海道日本ハムファイターズは勝ったり負けたりの連続でした。今年は先発陣の駒不足を考えた
のか、また新しい戦術として栗山監督がオープナーという方法で先発投手を3回で早々に交代させて2番手
ピッチャーにつなぐという方法を取っています。昨年、メジャーリーグをテレビで見ていると、タンパベイ・
レイズというチームがけが人続出で先発陣が十分そろわない中で、抑え投手を先発で使い初回の1回だけ
投げさせる戦術を採っていました。その抑え投手は翌日にも先発し、みんなビックリ。抑え投手なので1回
限定は分かっているので、気持ち良く投げていたのだが印象的でした。
その投手起用が良かったため、昨年はブルペンデーと称してタンパベイ・レイズは何度も先発以外の救援
投手を何度も起用したのでした。栗山監督もそれに習ったわけではありませんが、常に新しいことにチャレンジする精神はみんなが認める
ところ。開幕戦前には、今年のファイターズは先発陣が十分揃っているとファンは思っていましたが、
昨年加入した外国人投手のマルティネスが右腕のケガで開幕早々から投げられなくなり、先発投手として
計算できる人が少なくなってしまいました。
そこで考え出したのが、オープナーという方法でした。昨年までだと先発投手として投げたら、次の登板
までは1週間は登板間隔空けるのが日本のプロ野球では当たり前でした。でも、先発して3回までしか投げ
ないのなら次の登板まで1週間も登板間隔を開けずに投げられる。また力がある内にバッターを打ち取れる
ことが出来、余力を残したまま次の登板まで備えられるということだと思いました。
栗山監督は昨年のシーズンオフから考えていたのではないかと思いました。オリックスのエースだった
金子投手を獲得したとき、先発専門だった金子投手にもっと色々なやり方で投げてもらうということを
伝えていたようなので、今年の起用法をすでに構想をして持っていたのではないかと思いました。
実際にこれまでの金子投手の起用を見ると、先発で投げてもせいぜい5回で終了。オープナーを採った日は
2番手で投げて3回を投げたら交替。1回のみの救援登板もありました。登板間隔もかなり短いです。
一番投げているのは加藤投手ですね。先発したり、中継ぎをしたり。先日は先発して5回を投げて勝利投手
にはなっていました。そういう話題を振りまいている日本ハムファイターズですが、試合の勝利にはなかなか繋がっていません。
まだ打線も本調子でないので、ゴールデンウィーク中の10連休も勝ち→負け→搗ち→負け・・・と見事に
繰り返して勝率5割のままです。なかなか貯金が増えません。
それでも、今年は上位に付けたままこれまで戦っているので今後チームの状態が良くなって、メンバーも
揃い始めたら優勝に一歩づつ近づきます。また楽しみなシーズンが続きます。頑張れファイターズ!
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✴︎ 病院関連あなたの人生の最期は誰が決めますか
みなさん、こんにちは。ご無沙汰院長ブログに来ていただきありがとうございます。
今日の表題は何?と思った方がいるかもしれませんが、今週の水曜日の医療講演のテーマでした。
昨年は、当院の医療講演は毎月看護師たちが自分の得意なことを順番で持ち回りで行い、好評でした。
そこで、今年はと地域医療室の人が考えたのが、大きなテーマに沿って各職種が話すことでした。
あるテーマに関して、医師や看護師、コ・メディカルの立場から話してみようという企画になりました。その第一弾が、『病院でお話する終活』というテーマでした。
まずトップバッターとして私が昨日お話をさせてもらいました。
地域医療室の人としては、今回は宣伝に力を入れました。いつものように北海道新聞の折り込みチラシ
を入れるだけでなく、地域の町内会の回覧板にも入れてもらい、そして北海道新聞の地域の紙面にお知
らせコラムを入れてもらったのでした。この効果は絶大でした。昨日は13時から講演の予定だったのですが、12時10分過ぎにはもうすでに当院の
4階講義室に人が入り始めました。どちらから来られましたか?と聞いてみると、なんと東区!(当院は
清田区の外れにあります。札幌在住でない方がこのブログを読んでいると考え説明しますと、ちょっと
距離が遠くて通常は来院されません。ですからビックリなんです。)
その後も続々と人が集まり、当初用意していたテーブルと椅子では足りなくなり、追加の椅子を出すこと
になりました。医療講演開始の10分前にはもうすでに一杯になり、お待たせするのも悪いと思い、講演
前の前座として(サービスとして)私の漫談もさせてもらいました。ちょっとリラックスをして13時から本題の講演をさせてもらいました。
以下は話した内容の抜粋です。(講演を聴かれなかった方にも考えてほしいことです)最近、「終活、終活」と世間一般で言われていますが主に遺言書の作成や亡くなった後の葬儀やお墓の
事、財産などの事などエンディングノートを記入したりして、目的は自分が亡くなった後、家族にかかる
負担を減らすことが目的になっています。しかし、突然命に関わることが起きたとき、どうするかを皆さんは話し合っているでしょうか?例えば、
急に病気で倒れて救急車で病院に運ばれて、救命に一刻を争う状況。また、病気で何度も入退院を繰り
返していて、今度も退院できると思っていたら、もう退院はできませんし命も長くありませんと言われ
た。また、自分の力ではもう食べれることができませんと言われた。そんな時・・・。テーマは『あなたの人生の最期は誰が決めますか?』ですが、病気や年齢を重ねることにより今までの
生活が続けられないことが突然起こる。また入院した時、症状によって延命治療のついて確認される
ことがあるが、本人はもちろんご家族もそんなことを考えたことがないことが多いのです。
特に本人がもう意識が無い状態などに、家族が急に大事な選択をしなくてならなくなる状況となり、
大変な重圧がかかってしまうことがあるのです。少し前の医療現場では、救急車で運ばれてきた患者さんはまず最初に救命を行います。その処置で心臓は
動き始めすぐに入院することになります。家族はどうしたらいいか分からず、医師から言われるとおり
に任せるしかありませんでした。
結果として、例えば人工呼吸器がついた延命処置を続ける患者さんが病院にあふれるようになってしま
いました。意識は戻らないままの状態です。本当は本人はこのような延命治療は望んでいなかったことが
後で分かることがあっても、これ以上どうしようもなかったことが続きました。そういうことを防ごうとする努力は以前からありました。いわゆる事前指示書です。将来、自分の意思が
無いときに自分に行われる医療行為を事前に意思表示をしておくことでした。例えば、点滴を希望する/
しない、胃瘻を希望する/しないなどの医療行為を事前に決めておくことでした。しかし、米国で大規模な介入研究を行ったところ(なんと9000人!)、入院前にすべての患者さんに
事前指示書を書いてもらったのですが、結局本人の意思がそのことで尊重されたか、延命治療の機会が
減ったか、費用は減ったか、苦痛症状が減ったかなどを評価したが、まったく効果無かったという結果
が出たのでした。つまり、事前指示書を書いたところで効果はないという結論だったのです。それで、次に考えられたのがアドバンス・ケア・プランニングというものでした。『将来の意思決定能力
の低下に備え、事前に今後の治療・ケア、代理決定者などについて、本人・家族・医療者みんなで話し
合っておくプロセス』のことです。
単なる相談や事前指示書を作成しても、終末期には患者本人の意向を尊重できないので、関係者が
プロセスを大事にして話し合いすることが重要だということで世界的にも認識されていることです。講演では、そのアドバンス・ケア・プロセスのいいところを一通り話しました。
そして、厚労省が出している『人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイド
ライン』もまさにアドバンス・ケア・プロセスそのものなのでした。
ただ、厚労省としてはこの言葉が英語のため普及しにくいと考えたのか、昨年11月に愛称を募集し
『人生会議』という名称に決まりました。以上の話をして、最後にあなたの人生の最期をだれが決めるかを親しい人で話し合うことを勧め、家に
帰ったら是非人生会議をしましょうと話して、今日の講演を終えました。最後は会場からの質問を受け、予定の1時間をオーバーして終了。たくさんの方に聞いてもらい大変
良かったと思いました。
次回は、看護師・棟方さんからの講演です。楽しみにしてくださいね。 -
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✴︎ 病院関連新入職オリエンテーション
4月1日は当院も入社式でした。今年は7名の新入職員を迎えました。新しく入ってくれた医師や当院の理念に共感
して入っていくれる看護師さんなどもいてまったくの新社会人は1名だけでしたが、みんな緊張感を持って入職
してくれました。そういう私も今から30数年前にある会社に入職し、4月1日に社会人の第一歩を歩んだのでした。大学を出た
ばかりでまだ右も左もよく分からず関東の会社に就職。そのころは新入職者が多かったため入社式は都内の大きな
ホテルで開催されました。
そこはその頃住んでいるところから遠くて電車で出掛けたのですが、朝の時間の感覚が分からず満員電車に揺られ
結局入社式に遅刻。何ともみっともない初日だったのを懐かしく思い出します。当院の入社式の後は、幹部と一緒に記念撮影を行い1日かけて入職オリエンテーションでした。当院の職員として
働いてもらうには当院の理念や病院の方針など、また各部署の担当者からは細々とした内容が伝えられました。
私は、いつもこのオリエンテーションで当院の歴史を語っています。どうやってこの病院になってきたのかを振り
返るいい機会になっています。思えば院長になって8年。話すことが増えてしまい、時間オーバーになってしまう
のですがこの病院の成り立ちをしっかりと理解してもらい、また未来に向けて頑張りたい気持ちを伝えたつもり
です。入社式から1週間が過ぎましたが、ちょっと緊張感が切れる頃かもしれませんね。みんなで声を掛け合って見守っ
ていきたいですね。 -
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✴︎ 病院関連平成が終わりを告げようとしています
みなさん、こんにちは。いよいよ明日新しい年号が発表されますね。昭和生まれの私にとっては3つめの
年号になるんですね。10代の頃は二つ前の”明治”という年号を聞くと古いなあとと思っていましたが、
平成が終わり新年号がやってくると私が生まれた”昭和”も2つ前の古い年号になってしまうんですね。
病院で働き始めた頃は、患者さんが明治生まれと聞いたら100歳近い人が多かったですが、今は大正
生まれの人がみんな高齢者です。先日大正元年の人の訪問診療を行いましたが、なんと106歳。まだ
まだ元気な方でした。新しい時代がやってくる感じがしますね。病院も新しい職員を迎え、明日から新年度が始まります。
新しい病院も近づいています。(と、思っています)
さあ、頑張りましょう。 -
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✴︎ 病院関連災害は忘れた頃にやってくる
みなさん、こんにちは。今年の冬はもう終わったと感じる今日この頃ですね。
1月はブログをたくさん書いていたのですが、2月はパッタリと止まってしまいました。個人的には
忙しく動き回っていたのですがブログの更新が途絶えてしまっていました。
先日、ある雑誌の記事で期日までに書かないといけないと思うと筆が進まないが書きたいことがあると
どんどんと筆が進むんですよと書いてありました。確かに、うなづけます。
ブログも書かなければと思うと、文章が止まってしまうのですが、書きたいことがあると次々にアイデアが
湧いてきます。でも、書きたいことが出てくるのを待っていると、ブログの更新も途絶えてしまいます。と、言うことで今日は表題のことに関して少し書いてみようと思い立ちました。
東北の大震災からはもう8年が経つんですね。早いですね。私たちも昨年9月の胆振東部地震でのブラック
アウトを経験してから災害は他人ごとではないことを実感しました。こんな小さい病院でもしっかり
と対策を立てておかなければいけないことを痛感した災害でした。
それ以後、病院としては防災会議を開いたりとして少しずつできることをやっていました。しかし、まだ
十分でないなあと思っていた矢先の2月21日夜にはまた大きな地震がやって来ました。
今回はちょうど自分が当直をしていた夜で4階の部屋にいるといきなり大きな揺れが来ました。残っていた別の
先生のスマホの地震警報が鳴り響いていました。かなり揺れましたが、まずすぐに当直室のテレビをつけて
チャンネルをNHKに合わせ、また前回の地震でお世話になった携帯ラジオのスイッチを入れ地震情報を待ちました。
その日はまだ21時ということで、何人かの職員も残っており、みんなで手分けをして病棟の安全を確認。ロビー
のエレベーターは地震のため止まってしまいましたが、建物にも大きな被害もなく今回はホッとしました。
1階ロビーでNHKニュースを見ながら各地の震度情報を確認していましたが、そのうち何人もの職員が病院に
やってきました。なんでこんな時間に?と思ったところ、ちょうど送別会を近くでやっていたようで地震が
起きてみんなが自主的に駆けつけてくれました。停電、断水もなく、今回はよかったです。1時間ほどして
みんな帰って行きました。
やはり災害は忘れた頃にやってきますね。まだまだ準備が足りないことを痛感しました。 -
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✴︎ 病院関連3月になりました
みなさん、こんにちは。3月になりました。今年になってからもう2ヶ月も過ぎたのですね。
このところの気温上昇で札幌の雪がドンドンと融けています。この調子でいけば、自転車通勤も例年
より早まりそうです。それより、もう冬用タイヤからノーマルタイヤに変えてもいいのかも?と思う
次第ですね。さて、当院にとっては残念なお知らせがあります。長年当院で活躍された眞野(まの)勉先生が今月一杯
で退職されます。眞野先生に定期的に通院されていた患者さんにはすでにアナウンスされており、きちん
と引き継ぎがなされています。外来診療の方は2月中に終了されました。
4月からは生まれ故郷の鳥取県米子市で勤務されるそうです。田舎に帰って、地元の医療に貢献したいと
いう気持ちだそうです。
私たちも気持ち良く送り出しますね。新しい所で是非頑張ってください。 -
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✴︎ 病院関連徳洲新聞の直言
みなさん、こんにちは。今日は札幌はいい天気になりました。ちょうど低気圧が通り過ぎる谷間だからで
しょうか? 真冬なのになんとなく穏やかな気分になっています。予報では明日から荒れるようです。
もちろん北海道は広いので旭川なんかは朝からどんどん雪が降っているようです。さて、表題の新聞をご存知でしょうか? 徳洲会グループの広報紙として毎週発行されています。毎週
月曜日に本部から送られてきて、火曜日には病院のロビーに置いてあることが多いです。徳洲会グループの
病院に通われている方ならご存知だと思います。合計4ページの小さな新聞ですが、グループの各病院での
取り組みなどが紹介されています。当院もちょくちょく取材を受けて出ることがあります。私も何度も
インタビューを受けました。さて、その新聞ですが必ず2ページ目に「直言(ちょくげん)」というコラムがあり、色々な方たちが書いて
います。徳洲会グループの前理事長の徳田虎雄先生が元気なときは、ほぼ毎週のようにそこに徳田先生が
みんなに言いたいことを書いていました。しかし、病気になられてからは各病院の院長が順番に書くように
なっていきました。
と、書けばみなさんわかると思いますが、今週号は私が書いた直言です。久しぶりでしたが思いは伝わるかな
と思います。徳洲新聞が手に入らない方は、徳洲会グループのホームページの徳洲新聞のところから入れば
読めます。と、宣伝になりましたが、ちょっと恥ずかしいですね。 -
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✴︎ 病院関連本格的な冬到来
みなさん、こんにちは。週末に大きな寒波が来て北海道にも本格的な冬が到来しました。
私は週末に日本死の臨床研究会年次大会に出席するために新潟に出張していましたが、その間に雪が
しっかりと積もっていました。寒さも本格的で、日曜日の夜に新千歳空港に降り立ったときには
いよいよ冬だなあと思いました。気がつけば12月も半ばになりました。ふと考えると、昨年の12月1日には当院には大きな出来事が
起こっていました。そうです。病院名の変更です。詳しいことは昨年のブログに書いてあるので
参照していただければいいですが、早いものです。何か昨日の出来事のような気がします。
そして、今日も診療して気づいたのですが、毎日パソコンの画面を見ながら診療録を記録しています
がなんと電子カルテを導入して3年以上も経ったのです!(@@)(◎・◎)
みんな当たり前のように電子カルテを使っているのですが、3年前はまだ紙カルテだったんですよ。
どれだけ楽になったことやら。(ただし、9月の北海道胆振東部地震の際の停電には参りましたが)電子カルテ前の紙の時代、古い病院名の”札幌南青洲”。なんて懐かしいでしょう。(と、ちょっと
感傷にふけってしまいました。)そうそう、今日で当院のインフルエンザワクチン接種は終了してしまいました。例年通りにインフル
エンザワクチンの量は確保していたのですが、11月中旬頃から周囲の病院・診療所でワクチンの在庫
が無くなったようで、当院へかなりの人が流れてきました。そのため予想以上に当院のワクチンが
使われてしまい、とうとう今日で無くなってしまいました。もう入荷の予定もありません。特に昨年の
ようにマスコミでも騒いでいなかったし、11月中にはまだインフルエンザの流行の無かったのに何故?
という感じです。
ワクチン接種も大事ですが、毎日の手洗い・うがいと体調管理も大切です。しっかり睡眠を取りま
しょう。(最後は健康講座になってしまいました。) -
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✴︎ 病院関連 -
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✴︎ 病院関連北海道地震に伴う停電での出来事(その2)
(長くなり、続きです)
2日目(9月7日)の朝3時頃、医局のソファの上でふと目が覚めました。ちょうど地震発生から
24時間が経過していますが、まだ外は暗く電気の復旧はしていませんでした。この時期の札幌の
日の出は5時過ぎ。4時頃になれば外は明るくなってきます。ですからまだまっ暗な状態。病院内
をぐるっと回りましたが、大きな異常は無くてほっとしました。自家発電による電気のお陰で、
病棟のナースステーションの蛍光灯はとても明るいですが、病室や廊下・階段はまっ暗な状態。
手持ちのライトで床を照らしながらの移動しました。
1階のロビーに降りると、事務長やその他の職員が長椅子の上で寝ていました。起こさないように
そっと側を通りました。もう一度仮眠を取り、起きたのが5時過ぎ。外は明るくなっていました。病院の方は特に変化が
無かったので、一度液状化現象が起きたところを見に行っておこうと思い、外に出かけました。病院の裏側から歩いて行くと3分ほどでその現場に着きました。以前、訪問に行っていた患者さん
の家の隣の家のところから液状化が起こって、アスファルトが波打っていました。ちょっと先には
テレビでも写っていた紺の車が泥の中にはまっていました。来た道を引き返し、別の方へ歩いて
行くと夜の間ずっと復旧工事をしている人たちがいました。
これ以上は病院を離れてはいけないと思い、再び病院に戻りました。地震発生から翌朝を迎えていました。自分の自宅は大丈夫と妻から連絡はもらっていましたが、
一度見に行った方がいいと考え、事務長に伝え自宅へ戻りました。自転車で自宅へ往復。一部の
信号は点灯していましたが、ほとんどはついていませでした。大きな交差点では警察官が交通整理
をしてくれたお陰で安心して渡ることができました。
自宅では、家族が無事一夜を過ごし、保管してた水や残った食べ物を食べていて、特に困っている
様子はなかったようです。子供たちは学校が休みになったため、手持ち無沙汰なようでした。
自宅で朝ご飯を食べ、少しだけ鋭気を養い再び病院へ。朝8時前から再び1階のロビーに職員が集合し、今日からのスケジュールが始まりました。
朝6時の時点で電源の復旧の目途はなし。まだ断水も継続していました。車の燃料は近くのガソ
リンスタンドのご厚意により当院の車に優先的に配給してもらいました。
自家発電の方は、いくつかの方面から確保ができ、まず夕方までは軽油が確保できました。
それよりも電源の復旧に関しては、各方面からのサポートで2日目の昼過ぎに電源車が確保でき
そうな連絡がありとてもうれしい知らせとなりました。もし電源車が到着すれば、ほぼ電気の
心配が無くなり、通常の通り電子カルテなどが使える状態になるとのことでした。
また、札幌市水道局も断水が続くと受水槽の水が足りなくなることを伝えたところ、給水車を派遣
してくれました。実は、1日目の夜からすぐ近くにあるガソリンスタンドとコンビニの電気がついており、病院の
後ろの家の電気もついていたので、もうすぐ電気が来るだろうと淡い期待をしていたのですが、
全然電気が来ません。次の日の昼近くになってもまったく電源の復旧の気配はありませんでした。
ラジオからの情報では、苫東厚真の発電所がダウンし、全道が停電していて、順次発電所を稼働
しているけれど全部復旧するにはかなりの時間がかかりそうということはわかっていました。朝の会議で、2日目の診療は基本的には制限しながら、歩いてくる患者さんの診療は継続(電気
はないので、検査などはできないが、投薬はできるので、その旨を話して受付とした)しました。
救急受け入れは基本的には断りましたが、通院患者さんで在宅酸素が必要な患者さんは2名入院と
しました。それ以降は入院も中止としました。
透析に関しては9月7日の透析は中止。明日以降に出来ることを見越して、中止としました。そこまでを決めた後は、各自が持ち場の仕事をこなして行きました。私はラジオから流れる情報を
常に収集していました。
午前中は、予想以上に外来患者さんが来院され、20名以上が診察を受けました。午後になり、電源車が来るという情報も来たのですが、結局まだ動けないということで、夕方
まで持ち越しになりました。
燃料の方は、順次確保することができ、自衛隊からのサポートがありドラム缶1缶を置いていって
くれたお陰で、翌朝まで自家発電の燃料の心配はなくなりました。そうして時間が過ぎ、日が暮れ1階のロビーがどんどん暗くなっていきました。停電が続いたまま
2日目の夜を迎えました。
17時過ぎに1階のロビーに全員が集合。病棟の食事を配膳した後は、ほぼ急を要する仕事は
無くなったため、夜に向けたの体制を整え、明日の準備のため必要な人以外は各自自宅待機と
なりました。
残った人は、電源車がもし来て電源が復旧したときに備えて待機。電源復旧の際は、電子カルテ
のサーバーを立ち上げて、動作確認。また、翌日からの透析が出来るように準備するための
メンバーと数名のサポートの人間のみが残りました。20時を過ぎても、電源車はやってきませんでした。もう今日もこのままかなと思っていたときに
いきなり「バン、バン、バン」と1階のロビーの電気が点灯しました。
「え?え?え?」「電源復旧???」 ようやく電気が戻りました。「本当だよね? 嘘じゃ
ないよね。また切れる?」などと言いながら、もう大丈夫でしょうと思い、思わず拍手を
してしまいました。それからはすぐに電子カルテのサーバーを立ち上げてもらいました。透析のスタッフには
明日からの透析の準備を始めてもらいました。
22時にはサーバーが完全に復旧し、電子カルテの動作を確認しました。そして23時には透析の
準備もOKという連絡をもらいました。
ほぼ明日からの診療はできると判断しました。23時30分すぎ、透析責任者の副院長と一緒に家に帰りました。地震発生の6日の朝3時過ぎから
約44時間が経過してました。まだ水道の断水のことは残っていましたが、電気が戻り明日から
通常に戻ると思い、ほっとして家に向かいました。病院から帰る道、もうほとんどの信号と電灯がついていました。ほぼ電気が元通りになったと
思いました。自宅前の電灯もついているので大丈夫と思い、家に入ったところ、真っ暗。
「ん?」 声をかけても誰も起きません。それに家の電気は何もついていない。何?
あ!ブレーカー落としている!と思いました。まあ、偉いですね。
ブレーカーを入れると、家の電気が点灯しました。冷蔵庫のスイッチも入りました。ほっとして、眠りにつきました。
(以上、長い文章でしたが、電源復旧までの小さなドラマでした。)
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✴︎ 病院関連北海道地震に伴う停電での出来事
みなさん、ご無沙汰しております。今回は、北海道胆振東部地震および全道の停電で色々な方から
心配していただきありがとうございました。今回はちょうど札幌市清田区里塚で地震で起きた液状化現象の起こった付近のすぐ近くに
当院があり、またその液状化現象で流れ出た泥が病院前の道路を完全に塞いでしまい、
そのため報道などにも何度も出たようで、全道停電のためテレビやネットの映像を見ていない
のは当院の職員ぐらいという状態が続きました。以下、私の経過です。(記憶のみで書いているので、経過は前後しているかもしれません。また
冗長な長文になってしまいました。)私は3時8分の地震発生でたたき起こされ、家族の無事と家の無事を確認。すでに停電状態のため
懐中電灯で家の中を動く状態でした。余震は心配しましたが、病院へ行く準備をして家を出発
しました。車で行くより、自転車の方が安全と判断し、病院へ向かいました。
病院に向かう途中はすべての信号、電灯が消えている状態で、夜空の星がとてもきれいで、
オリオン座がとてもはっきりと見えました。病院近くに来たとき、いつも坂道を下って病院に着くのですが、その坂道の手前で迂回路を示す
看板が立っていました。(この時点でまだ交通整理する人はいませんでした。)
何でこんな看板があるんだろう?と思いながら、看板を避けて、いつもの坂道を下っていくと
その先になんとなく水がついているような感じが見えました。そのまますっと下っていくと
自転車が泥水にはまりかけ、危ない危ないと思い、左側の歩道の方に乗り上げたのですが、
そこもまだ泥水で自転車から降りました。少し、自転車を押しながら進むと、道路全体が泥水
で覆われいる状態でした。病院と反対側に降り立っていたので、この泥水の道路を渡って反対側
に行かないと病院に行けないと思い、渡ろうとしたら、足が泥に取られてしまいました。ちょうど
近くにいた人から、さっき向こう側に渡ろうとしてはまっていましたよと聞かされ、無理して
この道路を渡らない方がいいと判断。今来た坂道を引き返し、違う道から病院に行こうと
思いました。そして、坂道を少し上がって、左に折れて行こうとしたら、今度は崖のようになり
水が吹いているところに来てしましました。(実はそこが今回、報道されている液状化現象で
陥没してしまったところでした) まだ日が上る前だったため、よく前方が見えなくて、ここを
無理して渡るより、さらに遠回りして病院に行った方がいいと思ったところ、ちょうど看護部長
から病院前の道路は泥水で通れず、国道から回った方がいいと電話が入りました。
それで、ぐるっと遠回りして病院に到着したのが、4時10分頃でした。病院に到着するとすでに、かなりの職員が出てきてくれていました。看護部長、事務長もすでに
到着しており、1階のロビーが緊急会議をする場所になりました。
ホワイトボードに今起こっていること、これからの必要なことなどを次々に書き入れ、情報共有
が始まりました。
病院の被害状況の確認、停電に伴う自家発電が始まっており、その燃料確保の問題、断水には
なっていましたが、当院には受水槽があったお陰で病院内の水道に関しては当初は大丈夫である
こと、液体酸素もまだ十分にあることなどなど、ボードに書き出しながら順次進めていきました。9時過ぎには幹部を中心に対策チーム(?)を編成。各担当部分を決め、その都度大事な判断を
相談しながら決定していきました。診療に関しては、大幅に制限。入院依頼などの判断は院長の
私が担当、透析に関しては副院長に取り仕切ってもらい、病棟のことは看護部長が。燃料確保や
車や部品なの手配、外とのやりとりなどは事務長が担当。小さい病院だったからこそ、いつもの
コミュニケーションが威力を発揮しました。2時間ないし3時間ごとに1階のロビーに集合し、情報共有をしながら電源の復旧を待っていました。
停電後からの一番の懸念は自家発電のことでした。燃料の軽油の備蓄は限られており、その確保が
常に問題になりました。(それが、結果的に看護師たちが自発的に『燃料』と書いた紙を病院の上
からテレビカメラに向かって出したことに繋がったのかもしれません。)燃料は当初は近くのガソリンスタンドで確保できたのですが、それもすぐに追加はできなくなり、
午後には遠くまで確保に行きました。そのうち、保健所から燃料の配送希望の問い合わせがあり、
一度燃料車が来てくれました。また、停電のため、電子カルテはまったく使えない状態でした。サーバーもダウンしており、
通常の診療は出来ない状況であり、また現在入院患者さんのデータも簡単にはわからない状態で
した。唯一、無線ネットワークから昨日までのデータを見ることが出来るノートパソコンが1台
あるのみでした。当初はそのパソコンで患者データも見ることができたのですが、徐々に無線回線
が不安定になってしまい、結局は停電初日はほとんど使えない状態になってしました。時間経過は前後していますが、そういう中で連携している在宅の診療所からALS(筋萎縮性側索
硬化症)の患者さんの入院依頼がありました。以前、当院に入院しており昨年自宅へ退院して
いった患者さんでした。私の中では、自家発電の燃料の心配はありましたが、自宅で困っている
人を助けないと行けないと思い、みんなにALSの患者さんの入院依頼を告げ、すぐに動いてもらい
ました。当院まで来るのにも大変だし、当院の救急車に職員を乗せて迎えに行ってもらいました。
10時過ぎには無事病棟に入院。もちろん電子カルテは使えませんから、古い紙カルテを運用して
代用しました。停電のため、光が入らない当院の1階のロビーは真っ暗で、外が明るいのにロビーの暗さに
びっくりする人も多かったと思います。その後も、在宅酸素を使っている当院の通院患者さん
から酸素を使わせてほしいと連絡があり、次々と外来へ。一般外来は制限していましたが、
こんな風に困っている人は受け入れるしかありません。酸素バルブがあるベッドで酸素投与を
続けてもらいました。その後も何人かの在宅の先生から入院依頼があったのですが、すでの病室が満床状態でもあり
また自家発電の継続心配もあり、心を鬼にして断らせてもらいました。(困っている人を助ける
のが徳洲会グループの精神なのですが)
結果的にはそれが後で良かったことになりました。副院長が以前、札幌医師会の災害救急の講習会に出ていたことがあり、EMIS(広域災害救急
医療情報システム『イーミス』)というものに登録していました。この災害時にスマホ経由
で当院の状況を報告したと聞いていました。
そうしたところ、保健所からの問い合わせがあり、そのときには燃料の件を報告できたし、
また厚労省からも病院の状況の問い合わせもありました。一番助かったのはDMATチーム
から人工呼吸器の患者さんの問い合わせでした。その時点で当院には緊急入院したALSの
患者さんを含め計4名の人工呼吸器が必要な患者さんがいました。自家発電の燃料が十分持つ
保証が無かったため、その時点でDMATチームに人工呼吸器患者さん4名を別病院へ搬送して
もらうことを決断。夕方17時以降に順次搬送してもらいました。2名は近くに降り立った
ドクターヘリに乗って、北海道大学病院へ。残りの2名は別々の救急車で北海道大学病院へ
搬送していただきました。また停電直後からの懸案は透析患者さんでした。副院長も電源復旧を見越しながら、決断の
時間を見極めながら情報収集しました。もし停電翌日に復旧することが確実なら透析自体を
1日伸ばすだけなら大丈夫ですが、それ以上になるとまずいことになることは分かっていま
した。停電発生当日には早い段階で当院での透析は中止と判断しましたが、関連病院である
札幌徳洲会病院が復旧しており、9月6日に限ってなら透析患者さんを全員受け入れ可能と
言われ、全員搬送して透析することになりました。通院透析の患者さんは迎えに行って
札幌徳洲会病院へ搬送。透析を終えたら自宅へ送り届けました。当院入院中の患者さんは
順次当院の車を使って搬送。透析を終えて、当院に連れて帰ってきました。最後の透析患者
さんが戻ってきたのは21時30分頃でした。今、振り返れば停電当日に透析出来る患者さんを
全員札幌徳洲会病院で透析しておいたのが、翌日の余裕に繋がりました。人工呼吸器の患者さんや透析患者さんのことが一通り落ち着き、朝からずっと働いていた
職員を順次帰していき、なんとなく1日目の夜を安堵しながら迎えようとしたときに、ふいに
ある女性がロビーに入ってきました。なんとなく頼み事がありそうで、話を伺うと当院に
通院中の患者さんが在宅酸素のボンベを大事に吸っていたが、残りが少なくなって不安そう
にしていたので連れてきたとのこと。名前を伺うと私の患者さん! 病棟の空きベッドを
確認しすぐに入院してもらいました。ご本人も入院出来てほっとしていました。夜になっても電源復旧の見通しは立ちませんでした。札幌市内でも一部電気が開通したと
いう情報が入ってきて、病院のすぐ隣の家の電気が点灯し、ガソリンスタンドの電気が
ついたのと、その周辺の街灯がついたときはもうすぐこちらまで来ると期待しましたが、
まったく復旧の気配はありませんでした。自家発電のエンジン音が響きながら、各自横になる椅子やソファを見つけ、各々が仮眠を
取りました。私も医局のソファで仮眠を取りました。
そうして、1日目の夜が更けていきました。(長くなったので、つづく・・・)
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✴︎ 病院関連東京も暑かったですが、札幌も暑いです
週末は徳洲会グループの会議があり、東京出張でした。台風12号が本州に接近しているので、もしかしたら
千歳空港から羽田空港への飛行機が飛ばないのではないかと、ちょっと期待しながら先週の土曜日を迎えましたが
まったく影響なし。朝1番の飛行機は順調に飛び、羽田空港へは予定通り着陸。若干飛行機が揺れたような気も
しますが、時間通り到着。雨の予報ではありましたが、まだ羽田空港には本格的な雨もなく、また連日の猛暑が
嘘のような気温で札幌と大した気温差を感じませんでした。リムジンバスに乗って、いつもの会議のある千葉の
会場へ。ちょうどついた頃に雨が降り始め、ラッキーと思いました。
土曜日の午後から翌日の日曜日昼まで会議。(もちろん、夜はホテルでゆっくり眠りましたが)いつも大変とは
思うのですが、他の病院が頑張っているのを見て、僕も頑張ろうと思ったり、意外な人の講演が聴けたりと出張に行って良かったと思うこともあるのです。今回は、認定NPO法人ささえあい医療人権センターCOML(コムル)の山口育子さん(理事長)の講演会があり
ました。
実は、このCOMLの前理事長・辻本好子さん(故人)の講演を私は大学1年生の授業の時に聴いたことがありま
した。1年時の社会学の教授が辻本好子さんをわざわざ読んでくださり、話を聞いたのでした。そのときはまだ
医者になる前の卵状態。でも、そのときに聞いた「医者と患者の間には目に見えない深い谷があるんです。それを
埋めるためにも医者および患者が歩み寄ることが必要だ。」と話されたことが印象的でした。今回は、COMLが
発足して20数年が経過し、その中で色々なことが起こったことを短時間でまとめてお話してくれました。発足した
1990年の頃はまだ病名の告知がほとんどなされていない時代。患者が何も質問が出来ないという状態からは、
インフォームドコンセントという言葉が一人歩きし、『詳しい専門的な説明を長時間かけて実施する』になって
しまったという現状を話されていました。今の若い先生は、本当に時間をかけて丁寧に説明をしてくれるよう
ですが、本当に患者が理解しているかと言ったら、かなり疑問があるようです。理解ができないことにも患者側
にも問題があることを山口育子さんはお話していました。以前は、情報がないために何も分からなかったですが、
現在のようなインターネットで容易に情報が手に入ると場合によっては医者より情報過多で分かったつもりに
なって、逆に分からなくなることもあるようです。医者側もしゃべりすぎなのかもしれませんが、患者も問題が
あるとお話していました。やはり口頭ですべてのことを理解することは難しいので、患者にメモを取るように
勧めたらいいとアドバイスすること。また何が理解できていないかを確認することと言っていました。会場に
いた皆さんが真剣に耳を傾け、明日からの仕事に繋がるいい講演でした。連日暑い日が続いています。しっかり食べて、しっかり寝て暑い夏を乗り切りましょう。
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✴︎ 病院関連7月になりました。
みなさん、こんにちは。気がつけばもう7月に入りました。このところ雨ばかり続き、湿気も高く不快な日が
続いていますが体調はいかがでしょうか。ブログの更新も途絶えており、すっかり工藤看護部長には遅れを取っております。出張に行ったり、学会に
行ったり、先々週はNPO法人ホスピスのこころ研究所の設立記念講演会があったりと話題は色々とあるのですが、
いざブログを書こうとするとなかなか書けずに時間が経ってしまいますね。何か書こうという体の中から出てくる
ものが無いと進まないのかもしれません。これは体調に寄るのでしょうか?今日は、新しいことがあったので少し書く気になりました。先月も書きましたが、この6月で院長になって8年も
経ちました。振り返れば、最初は何をしたらいいか分からなくて、走り回っていました。
そういう中で、院長になったときに夢を持つことが大事だと思い職員の前で話したのが『新病院建設』でした。
その時点でこの病院はすでに築20年を超えており老朽化も進み、時代に合わせて建物も変化が必要と考えての
目標でした。
それでも、なかなか物事は前進しないことは予想していました。札幌徳洲会病院に勤めていた時代にも新築移転の
話はずっと話題に上がっていました。そのときの院長や事務長が会議で何度も新築移転候補地の話をしていること
を聞いていました。でも、移転候補地が出ても計画で終わったり、ようやく決まりかけたのにマンション用地に
なってしまったりと新築移転というのは一筋縄ではいかないと思っていました。
私が当院の院長になってからも、いくつかの移転候補地がありました。そのときに事務長たちと一緒にあちこちと
見に行ったものです。立地の面や値段などが折り合わずなかなか決まらなかったのでした。それが、ひょんなこと
から平岡の土地が移転候補地に挙がり、色々な偶然が重なって土地の取得につながりました。
土地の購入後も、なかなか病院移転の話は前に進みませんでした。しかし、昨年12月の札幌医療生活協同組合から
医療法人徳洲会への事業譲渡が新築移転の夢を大きく前進させてくれました。
今年になり、いよいよ新しい病院への具体的な動きが始まりました。先週はその中でも大事な会合が病院で行わ
れました。詳しいことはあまり述べられないので申し訳ありませんが、また一歩新築移転への夢に近づいた一日
がありました。先日、学会のついでに立ち寄った伊勢神宮の近くで見た猫の置物です。いいなあ、おなかいっぱいで。